第1章『無才能者』(3)



       *

 

スーパーでの買い物を終えて、マンションに着いたのは六時を過ぎたあたり。この時期になると日の入りも遅く、十分に明るいため、まだ階段の電灯は点いていない。

 自宅がある二階まで階段を上る。3LKの5階建てマンションだけど、エレベーターは設置されていない。まあ、ぼく自身は特に不便を感じてはいないのだけれど。


「……ただいま」


 自宅の前に辿り着き、玄関扉を開けた先は暗闇。

 鍵がかかってなかったので、おそらく母は外出中ではないと思う。

 玄関の明かりを点ける。そして母の靴を視認した。これで母が自宅内にいることが確定する。玄関の扉を施錠し靴を脱ぐ。それと同時に廊下の向こう――リビングの方で、硬質な何かが倒れる音が響いた。


 短い廊下を進み、リビングの扉を開く――複数の酒の香りとアルコール臭が鼻腔を刺激する。ぼくは未成年だけれど、日常的に酒の匂いを嗅いでいるせいで、母が飲んでいる物の多くがアルコール濃度の高い蒸留酒であることに気付いた。

 リビングの電気を点ける。

 その奥に彼女はいた。


「――――ぅ……」


 センターテーブルに顔を突っ伏し、カーペット上で崩れ落ちたかのように座りながら寝ているスウェット姿の女性。


 彼女の名は立花真季子。

 ぼくの母であり、唯一の家族だ。


 テーブル上には酒瓶が2つ――その内、空の瓶一つが倒れている――と、酒が二口ほど残っているグラスが置かれていた。つまみなんて物は存在しない。そんなものは母が夢に浸るのに必要ないからだ。


「ただいま、母さん」

「………………」


 母からの返事は無かった。

 いつものことだ。気にせずに倒れた酒瓶とグラスを手に取り、キッチンに運ぶ。

 グラスの中に残っていた酒をシンクに流す。琥珀色の液体が零れ落ちるとともに、木材と接着剤が混ざったような独特の匂いが立ち込めた。


 今のうちに酒を処理しておかないと、また母さんは酒を飲み始めてしまう。それに、きっと今日はろくに食事を摂ってないだろう。起こしたら、きちんと夕飯を食べさせないと。


 シンクの隣にある冷蔵庫を開け、スーパーで買った食料品を収納しながら中身を確認する。そこから献立に必要な食材を取り出して、天板上に乗せたぼくは、キッチンを離れて再び廊下に向かう。リビングとは別の扉を開くと、そこには六畳ほどの洋室がある。昔は父の部屋だったけれど、今はぼくの部屋だ。


 部屋に入ったぼくは、デスクにスクールバックを置き、中身のノートや教科書類をすべて、デスク横のブックラックに立て掛けた。携帯電話も取り出して、デスクのコンセントに挿しっ放しの充電器へと接続する。携帯電話の画面上に『六月六日(金) 六時二四分』と浮かぶ。夕飯には丁度いい時間帯だ。六が並んでいるのは不吉っぽかったが。


 ブレザーを脱いで部屋着に着替える。

 それを終えて、ふたたびキッチンに向かおうとした直後。


『トゥルルルル……』と、デスク上の携帯電話が振動音とともに、デフォルトの着信音を部屋中に鳴り響かせた。


 ……誰からだろうか? 


 ぼくの携帯電話の電話帳には、数人しか登録されていない。残念な現実だけど、同時に人間関係が気楽だということは、ぼくにとって心地が良い……じゃなくて。

 ぼっち特有の思考を振り払い、携帯電話を手に取る。ディスプレイは電話帳に記載していない番号からの着信を示していた。だけど、ぼくはこの番号を知っている。

 着信が切れたら不味いので、すぐ電話に出た。


「もしもし、四十九院(つるしいん)の叔父さんでしょうか?」

『そうだ。久しぶりだな、空君』


 四十九院尚紀(なおき)――母の弟であり、ぼくの叔父にあたる人だ。


 職業は医師で、婿入りした四十九院家の経営する病院に勤務している。さらに言うと、ぼくと母は彼からの経済的な援助を受けており、ぼくたち母子家庭の生活が成り立っているのは、一重に彼のおかげだった。


「あの……本日はどういった御用件でしょうか? 母に替わりましょうか?」

『いや、その必要は無い。私は君に用事があって、家の電話ではなく君の携帯電話に掛けた。そもそも君の母に出られると少々都合が悪い』


 それはどういう意味ですか? と訊きたくなったけど、考えられる理由なんて幾らでもあったことから、質問を飲み込んで話を聞くことにした。


『君に幾つか尋ねたいことがある。少し時間を取らせてしまうが構わないかね?』

「数十分程度なら大丈夫です」

『それだけあれば問題ない』


 その言葉を言い終えた叔父は電話の向こうで一度、ごほんと大きく咳払いして本題に入った。


『空。なぜ君は、この時期にもなって私に一度も進路の相談をしない?』

「え? それはどういうことですか?」

『尋ねているのは私だ。きちんと答えなさい』


 あまりにも直球な質問に思わず狼狽えたが、たどたどしくも返事を伝えた。


「ぼくは、その……これは自分自身の問題であって、親戚の方といえども家族以外の他人様に進路相談するなんて、申し訳ないと思いましたので」

『そんな訳がない。それは君の思い込みというものだ』


 きっぱりと、叔父はぼくの考えを批判した。


『空。私は一応、君の保護者だ。君の母親が保護者として機能しない以上、そうせざるを得ない。そもそも君の父、大地さんから頼まれていることでもある。それに、私は金銭の工面もしなくてはならないのだ。君の進路は決して、君だけの問題ではない』

「は、はい……」


 正論だ。何も反論することができない。

 すでに母と叔父には進路の相談をしてある、なんて氷室先生には言ったが、実は一度も相談なんてしたことがない。無才能者の進路相談なんて、迷惑にも程があると考えて誰にも言わなかったのだ。


 しかし、母はともかく叔父とは相談すべきだった。彼の言うとおり、ぼくの将来を把握しておかないと、立花家への資金援助に差し支えてしまうだろう。

 これは主観的にしか進路を捉えていなかった、ぼくのミスだ。


「すみません、ご迷惑をお掛けしてしまいました。進路については、今のところ就職を考えています。進学できるほど自分は優秀では無いですし」

『就職か。具体的には、どういった就職先を考えている?』

「それについてはまだ。少なくとも、自宅から離れていない場所で――」

『無理だな』


 叔父は、ぼくの考えを容赦なく切り捨てた。


『周辺の就職先は恐らく、近隣の工業、商業高校に独占されるだろう。即戦力となる彼らに対し、無才能者の君は太刀打ち出来ない」

「…………」


 数時間前に氷室先生が指摘した内容と完全に一致している。さらには厳しい現実と将来まで、叔父はぼくに突きつけた。

 だけど……だからと言って、諦める訳にはいかない。


「咲命館にも、高校卒業後に就職する人はたくさんいます。もう内定が決まってる人だっているんです」

『それは才能に恵まれ、さらに知識と技術が習熟していることが前提の話だ。なによりも早くから現場に出て、経験を積んでおくというのも一つの理由だろう。例えば伝統工芸等の、学術ではなく技術と感性を要する職業。しかし、それらこそ類稀な〝才能〟が必須になるだろう――結論を言おう。咲命館に在学してる以上、君一人の力で就職は不可能だ』

「そんな、こと……」


 否定材料が思い浮かばなかった。

 反論の余地が見つからないぼくよりも先に、叔父が話を再開させる。


『そこで、だ。もしかしたら都城家の御曹司で、君の友人でもある道継君から話を伺っているかもしれないが、どうだろう……私の元で、亜人斡旋業を営んでみないか?』

「え?」

『私もできれば知らない人間からではなく、君のような近く親しい間柄から供給できればよいと考えている。四十九院家の者にも君を優先的に迎え入れるよう指示するつもりだ。まずは美作家の所有している亜人〝病石(やまいし)一属〟の管理権を一つ、実家の方に掛け合って譲り受けたまえ。いかなる病や毒をも身に受け入れて血清や抗体を生み出す彼らは、四十九院家だけでなく世界中にも需要がある。生涯、君は仕事探しに苦労することはないだろう」

「待ってください、まだぼくは」

『真季子姉さん――君の母も、我々に任せておけばいい。君の父、大地さんからも頼まれていることだしな。仕事の傍らで、我々に母を任せられるのなら君にとっても望ましいのではないかな?』

「……そう、ですけど」


 彼の言った、ぼくの父で大地さんというのは、TMI開発における代表者として日本中に知られている美作大地のこと。


(っ、本当に嫌な人間だよ――ぼくは)


 叔父の口から父の名前が出たとき、ちくりと胸の奥で小さな痛みが走った。これは今日で二度目。一度目は中華料理屋で、道継に母のことを問い詰められかけたときのことだ。


 今回は、ぼくに母を任せられないと、父である美作大地が叔父に根回しをしていたことが無性に腹立たしくて許せなかった。父は母をぼくに残して飛び出していったのに、こういうところで顔も見せずに思慮しているのが、どうしても納得できなかったのだ。

 けど、


「ごめんなさい、そろそろ――」

『ん? ああ、もうこんな時間か。すまないが話は一旦、終わりさせてもらう。私もそれなりに忙しい身でね。そうだな、以上を踏まえて再来週までにじっくり考えておくことだ』

 こちらから話を切り上げようとしたのだけど、けっこう時間が経っていたことに気付いて、向こうの方が焦った声を上げてきてくれた。


「ええ、わかりました。お忙しい中、本当に有難うございました」


 そう、ぼくが返事をすると、叔父は『では失礼した。また再来週に』と言って通話を切った。


 ツー、ツー……と、通話終了の電子音が耳元で静かに鳴り続ける。


 しばらく携帯電話を降ろす気にはなれなかった。

 呆けていたんじゃなくて、思考の余地が無さすぎたので、ちょっとタイムしてる状態。要するに現状維持をしてるつもりになってるだけ。


 あー、やっぱ無理です。亜人とか管理とか、ぼくには重荷すぎるのでお断りいたします。


 そう零したくなったのに、相手がいないんだからどうしろって話。

 駄目だ、思考を切り替え(にげ)よう。


「再来週までに、か」


 なんのビジョンも無い。

 将来の進路だけでなく先程の再来週、そればかりでなく明日明後日さえも。


「いや……明後日の予定はある」


 いつの間にか電子音が止んでいた携帯電話を机に置く。少し頭の中がクリアになった、そんな気分がした。ブックラックから重要書類をまとめて保管するファイルケースを取り出し、中から一つの封筒を取り出す。

 これは招待状だ。

 差出人は、高校生ヴァイオリニストの日比野自由。

 県内の芸術文化センターで、彼女の帰国記念コンサートが開かれる。

 そして、ぼくは彼女から直々に招待状を頂いている訳だが――


「道継。これは君が貰うはずの招待状だったんだけれどね」


 彼女が本当に来て欲しいのは、ぼくじゃなかった。

 結局、ぼくは誰かの代わりでしかない。父にとっては自分の代わりに母の傍にいる息子、叔父にとっては身内であるなら誰でも構わない、将来の仕事相手として都合のいい甥。

 そして母にとって、ぼくは――


「……っ」


 まったく。どうしてぼくは、こうも自分の精神管理が下手なのか。

 あまり直視するには耐え難い代物なので、適当に机の上へ放り投げる。とりあえず封筒は視界から外して適当な事を考え始めよう。そうだ、コンサート当日の予定についてだ。


 カレンダーを確認するため、後ろに振り向いて視認する。六月八日(日)、自由のコンサートは正午から。ということは家事と昼食は早めに済ませて、駅へ向かわなくてはならないという訳だ。


 ……それだけである。なぜなら芸術文化センターは駅から徒歩圏内、当日混み合ったとしても演奏自体は正午からではなく、二時から開幕だ。


「予定に問題は無い、でも」


 なんとなく、ただ、ほんの少し疑問に思う。

 ネット上でもコンサートの情報は確認したが、なにか忘れているような。


「あ、そういえば……」


 封筒の中身は先程の二つだけではない。

 関係者以外立ち入り禁止である、楽屋までの案内状もあったのだ。

 しかし、ぼくが行くべきだろうか?

 だって本来はあいつが――


「誰も行かない方が、きっと、辛い」


 ぼくは彼女に必要とされている、そう勘違いしている振りをする。

 そうやって世界からも、家族や親類からも、一人の人間としての〝ぼく〟が必要とされない、無才能者の自分を甘やかす結論に至った。


       *


 台所から離れてから、大分時間が経ってしまった。

 リビングに戻って、ふと時計を確認すると時刻は七時近く。

 そろそろ夕食の支度を始めようとした――そのとき。


「……だ、い」


 まだ顔を机の上に埋めたままの、母さんの声が聞こえた気がした。


「――そう、だね」


 今は、まだ。

 夕食までは、そっとしておこう。

 念のため母を一瞥してから、異常が無いことを確認して台所に戻る。それから調理を始めようとキッチンの棚を開いて、包丁に手を伸ばしたとき。

 ずりずり、と衣擦れの音とともに背後から何かが近寄る気配がした。


 ……困ったな、まだ包丁は危なくて持てないか。


 リビングにUターンすると、母が目を醒まして、こちらの方へ雪崩れるように身を崩していた。どうやら寝起きゆえに途中で力尽きたらしい。

 母の元へ行き、取り敢えず様子を確認するため身を起こしてみる。

 胡乱な目付きだが二度寝を始めてはいない模様。


「母さん、分かる? 空。ぼくのこと視えてる?」

「うぅ……」


 マズイな、本格的に困った。

 ここまで意識が混濁していては、通常の夕食を食べさせるのが難しいかもしれない。

 さて仕方ないから夕食の献立を変更するか、と考え始めた矢先、


「だい、ち……」


 母が、父の名前を口にした。


「……母さん?」


 母さんの視線の先は、ぼくを向いている。

 それはとても不安定で、微かで、だけれど強く縋るような――っ、


「――大地ッ!」


 そう擦れた声で強く叫んだかと思えば、突然ぼくの胸に飛び込むかのように顔を埋める。

 そして、そのまま両腕が背中に回ると、彼女は弱弱しくぼくを抱きしめた。


「大地、大地ぃ……」

「大丈夫、離れないから。このまま、ずっと」


 ぼくにしがみ付いた母さんは、ぼくのことを大地と呼び続ける。今の彼女にとって、ぼくは〝空(ぼく)〟じゃなくて〝大地(おっと)〟でしかなかったから。


「ぅ……うぅぇ、大地……」

「ああもう、さすがに飲み過ぎだよ。ほら立って、洗面所に行くよ」


 抱きついたまま吐き気を催した母を離す訳にはいかず、そのまま立ち上がって洗面所に向かう。ずしりと両足に二人分の体重が圧し掛かった。ぼくと母は同じ体格だけれど、酔った彼女の重さは到底同じとは思えないほどの負荷を掛けてくる。


「大地、ごめんなさい、っ……もう、置いてかないで……!」

「大丈夫、ここにいるから。もう大丈夫だから――」


 別に、大して変わったことではないだろう。

 簡潔に、客観的に事実を述べると、父が母と離婚し、結果としてぼくたちは母子家庭となった、それだけの話。現状が異様なだけに過ぎない。

 こんな状態に成り果てたのには原因がある。離婚したというだけで、人間がここまで壊れる訳ではないはずなのだから。もしそうなら、ぼくも同じようになっていたはずだ。


 ぼくの前から父が去った、言い換えれば母の前から父が去った頃。


 TMIを公表する手前、どうしても表社会に姿を現さなくてはならなくなった美作大地は、家族であるはずのぼくらを裏財閥という裏社会に置き去りにした。裏財閥もまた表社会で動かすための企業を各財閥と合同で経営し、それを通して大地とTMIの普及に務めたのだ。

 ……その頃のぼくは、父のことを悪く思えなかった。

 元々、父とぼくは父子でありながら、一つの理想を追い求めた同志だった。

 だから互いに理解者であったつもりなのだ。

 悪いのは、ぼくらの理想を理解できなかった母さん。そう思っていたけれど、ずっと父のいない生活をし続けているうちに、道継にも再三問われていたこともあってか、ぼくは幼かった頃には気付けなかった当前のことに、ようやく気付いた。


 ――年端もいかない子ども、それも息子を科学実験に用いる父親は、本当に父親と呼べるのだろうか?


 それ以来、ぼくは父のことを他人のように名前で呼ぶようにしていた。

 母親を子に押し付けて二人きりにすることを、仕方ないの一言で済ましてしまうような大人を父さんとは呼びたくはなかったから。


       *


「ごめんなさい、ごめんなさい、空……」

「うん、大丈夫。それより母さん、箸、少し気を付けて」


 あれから一時間後、ようやく母が正気を取り戻した。

 ほっと胸を撫で下ろし、母の食事を眺め続ける。ついさっきまで酷い状態だったから、まだ予断は許されない。とはいっても、余程のことがない限りは悪化することはないだろう。偶然にも美作大地関連のニュースを、テレビ等で視てしまったりとかしなければ。


 ――おっと。どうやら母さんは口を開けていて、なにか物を言いたげな様子。


 しかし、

「空……」

「ん? ああ、お風呂なら母さんが先ね。今日はそんなにすること無いから、そのまま休んじゃって。そうだね、洗濯とかの合間に少しテレビが視たいかな」

「空、え、っと」

「うん? なにかある?」

「…………」


 そのまま母は押し黙った。

 よかった。さり気なく母さんの行動、この場合は言動をキャンセルできた。ぼくを父親と思い込んで醜態を晒したことが辛いのはわかるけど、正直な話、それをきっかけに精神状態が悪化してもらっては困る。

 まあ溜まりに溜まって、いつか爆発するのは避けられない運命だけど。


「そうだ、明後日の昼くらいから用事があってさ。夜までには帰るから」

「……ん」


 ご飯を口に含んだ頃合いを見計らって、すかさず予定を投げかけた。成功、異論無し。カレンダー等にも以前から書き記してあるので、これで母への心配や不安は、ほぼ解消された。今日の、大体の仕事が無事終了する。ぼくにとって家事雑事の何よりも、母の世話の方が負担だ。あとは母さんを寝かせるだけ。

 すっと肩の荷が外れたせいか、気分が上向きになる。

 母が風呂に入るまで自室で寛ぎたいところだけれど、吐いたばかりの彼女が吐き戻しでもしたら大変なので、仕方なくリビングに置いていた新聞を開いて時間をつぶす。


(番組表でも確認するか……〝世間を騒がす凶悪超能力者の正体、まさかの無才能者!〟って今更かよ。半年前あたりから何度も言われているってのにしつこいな。それに無才能者は犯罪者予備軍みたいな内容だったりしたら、また肩身が狭くなること間違いなしか)

「んぅ、んぐ」

「…………」


 新聞越しから母の食事風景を眺める――まあ、なんだかんだ言いつつ可愛いのだ。

 いや、母親に対して思う事じゃないだろうとツッコまれるかもしれないが、むしろ愛嬌とかなければやってられません。


 控えめに見て、母は小動物とかを思わせる可愛い系の美人、だと思う。

 かなりの童顔で年齢より一〇歳くらい若く、というより幼く見られやすかった母は、若い頃には結構モテたとのこと……父を除き交際経験はゼロのようだが。当たり前だ、交際してたら相手が心労で、おっと、それ以上はいけない。


 とにかく母は正直すげぇ面倒だが、同時に可愛い生き物なのだ――そうペットでも飼っているように思い込んで世話をし続けている。食事風景を見ていれば分かるだろう、裏財閥とはいえ一般から見れば元・一企業の御令嬢という出自だった訳で、所作は完璧だ。酒が切れてないせいか、箸の先がプルプル震えているのは玉に疵だが。

 まあ他にも色々と可愛い仕草は拝めたりする。良くも悪くも酒による後押しで。いや、それに至るまでの過程が最悪じゃねぇか。

 ……いやいやそうじゃない、母は可愛い動物。それは息子のぼくが保証できる。できるとして、どうすんのさって話だが。ああ、ぼくのストレスが軽くなるな。今まで耐え切れたのは、そういうもののおかげかも、しれなくもない。


「空、ごちそうさまでした……けぷっ」

「はい、お粗末様でした」


 そうっすね、今のおかしなゲップとか割とアリだと思います。

 ……20歳ほど年齢が若ければ、だけれど。

 ぼくは新聞を机の上に置いて、空の食器を重ねてゆく。片付けられてゆく食器に指先を向けた母だが、無理をして欲しくは無いので構うことなく台所に持っていった。


(……依存、なんだろうな)


 道継が指摘しようとしていたことに自覚はあった。

 でも、だからといって父親のように〝自分を優先して家族を見捨てる〟なんて真似だけは認められない。たとえ無才能者であることから、他人よりも自分のことで苦労することが理解ってはいても、自分を最優先にしてまで家族を、母を見捨ててしまうことは――


(ぼくは貴方とは違うんだよ、美作大地)


 心の中で父の名を呼び捨てながら、シンクの中に食器を落とすように置く。がらん、と皿が重い音を立てて崩れ落ちたが、構わずぼくは掴んだスポンジに洗剤を付けて手早く洗い始めた。

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