泡に溶けても、忘れない
蒼葉
泡に溶けても、忘れない
「彩陽先輩、わたしを、食べて頂けませんか?」
それは、物理的な意味で? 微笑みながら質問を返した彼に、わたしは笑顔で頷いた。
長閑な昼下がりの事だ。悠々と泳ぐ白い雲、一面に広がった青い空と、まだ、熱を伴った風が、屋上を吹き抜けていく。身を焦がすような暑さが、か細くなった蝉の鳴き声と共に、終わりを告げようとしていた。わたしは、今、一人の先輩に恋をしている。彼は、わたしより三つも年上だ。三年も違うと、時代も違うように思う。好きなアーティスト、好きな漫画、好きな映画。そういう、ちょっとした事でも、時々会話が続かない事もある。でも、好き、を共有するお話は、わたしの数少ない、至福の時間だ。お互いが会える時間は数十分のお昼休憩で、チャイムが鳴ってからは五分も無い。外の熱は頭の痛みを強くするけれど、先輩とお話できるのならば、我慢出来る。
「とても、突飛な発言だ、どうしたの」
「先輩は、人魚姫のお話をご存知ですか?」
誰かが語り紡いだ物語。わたしは、随分と前に読んだ絵本を思い浮かべる。先輩は、少し頭を悩ませ、ああ、と口に出した。
「確か……最後には、泡になって消えてしまう」
「最後だけですか?」
「何でも、物語と言うやつは、最後が印象的に残るものだろう」
うん、先輩のお言葉は一理ある。とはいえ、それは淋しい。人魚姫の拙い恋も、海より深い愛も、濁流にも負けない固い意志も、先輩はお忘れなのだろうか。
昼休憩が終了するチャイムの音。うだるような暑さに、体がそろそろ、冷房器具を所望している。先輩が、胸を抑えながら立ち上がる。二人して、惜しみながらも屋上を後にした。途中、テレビが置かれた部屋を通ると、お昼のニュースが流れていた。
「――の病は、器官が徐々に衰える特徴があり、現在において、ワクチン等の対処は未だ出来ておらず」
「人魚、か」
先輩が、パタパタと、冷気を取り込もうと手で仰いでいる。わたしは先輩を見上げた。優しい色を宿している先輩の瞳が大好きだ。見詰められると、凄く安心する。ドキドキ、してしまう。
「人魚姫は、泡になって消えてしまいました」
スルリ、わたしの口から、物語の一文が零れていく。蝉の命は、短すぎる。蝉は鳴き、番を呼ぶ。命を残すために。ただ、懸命に、全身を以って。
「最後に、何も残せないなんて、人魚姫は可哀想」
憐れめば、先輩は首を横に振った。
「残るよ。王子さまは、人魚姫と過ごした日々を、忘れない」
ふとしたときに、思い出すように。記憶は心を蝕む。決して、人魚姫という存在が居た事を、忘れないように。
チャイムが鳴り、五分が経つ、先輩とは居られない。ああ、頭が痛い。明日も、貴方に会えるかな。
「ねぇ、先輩」
だから、どうか優しい先輩。
「わたしを、食べてくれませんか」
愛した君は、そう言って、夏の空に溶けてしまった。彼女は、本物の人魚だったのかもしれないな。トクン、トクンと脈打つ心臓に、彼女の命を、感じていた。
泡に溶けても、忘れない 蒼葉 @aoba3133
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