第3話 ごめんね

図書館の外に駆けつけた頃、夜空の闇から雪が絶え間なく降り注いでいた。


「ハー、ハーッ、キツイ、キツすぎる」


普段運動をしない体でのマラソンは拷問であった。もう足がフラついて走れない。ラボの中で365日過ごす人間に映画のようなアクションを求めるのは間違っている。


雪のお陰で街の排気ガスが浄化されていたものの、冷えた空気はナイフのように喉を刺していた。おまけに手袋も何もかぶっていない手は赤くなっていた。


図書館の中からはオレンジ色の光が優しく溢れていた。


後は目の前の階段を登り、ドアを開けて、中にいる昔の私に話しかけるだけ。昔の私はクリスマスイブの日にも図書館に通っていた。絶対に昔の私はこの中にいる。


階段を登るのも一歩一歩が気持ち悪かった。石で出来ている階段には雪が積もっていて、その雪水が靴の中に入り、靴下の中に染み込んで、足指の間に冷たい水が溜まっていくのがわかった。そして登る度に水が靴の外へ染み出ていく。一歩一歩グジョグジョして気持ちが悪い。


図書館のドアは木とガラスで出来ていて、中がモザイクを通して見えていた。人の気配はここからでは感じられない。大体、クリスマスイブに私以外に誰が図書館で夜を過ごすだろうか?静かで当たり前だ。


後ろを振り返ってみる。雪と水でドロドロした道路を滑らないように車が静かに通っているだけだった。モナリザ女もサイモンも私に付いて来ていないよね。


ドアを開けて中に入る。


入り口には暖房があり、ゴーッと暖かい空気を吐き出していた。焚き火に近づくように手を伸ばして、私の凍った指の関節を一旦溶かしてもらった。


レセプションにはメガネをかけた初老の男が分厚い本を読んでいた。それ以外はガランとしていて、初老の後ろの壁に置いてある時計の針が動く音だけがした。


「クリスマス・イブにようこそ。静かな夜を一人で過ごすのも悪くないですね」


初老の男はまるで悟りを開いた仙人のような声をしていた。


本棚が図書館の地平線まで綺麗に並べてあった。乾いた紙の匂いが一つ一つの本棚から漂っていた。


図書館の奥に進んだ。


静かな図書館に私のグジョグジョした足音が響く。掃除機が隅々まで掛けられた絨毯の上を汚れた靴で歩くのは申し訳なかった。初老の男が嫌そうな顔をして私を後ろから見ているのを感じたが、無視した。私には時間がないからだ。


いないのかな?そう思った瞬間、隣の列の奥から本をめくる音がした。私は思わず息を潜める。


今度は鉛筆がノートに字を刻む音がした。私の鼓動が早くなり、思わず自分の口を抑える。あの書き方は私だ。やっと見つけた。


20年前の私は、私に猫背を向けて机の前に座っていた。丁寧に整えられた三つ編みの黒髪。テーブルにはピンクの手袋と筆箱がチョコンと並べてあった。


そばにある本を適当に抜き出し、昔の私の顔が見えるように反対側に座り込んだ。


昔の私はチラッと私を見上げた。そして周りを伺う。それも仕方がない。座る場所は他にも沢山のあるのに、何故ここにズブ濡れのオバさんが座るのだろうか?警戒しているのに違いない。


私はコートを脱いで、本を読むフリをした。チラッと昔の私の顔と体を更に観察した。昔の私は顔にシワがなくて綺麗じゃないか。今の私と違って肌にハリがあったし、健康そうだった。ただ、メガネはもっと可愛いのを選べば良いのに。お婆ちゃんがかけていそうなぐらいメガネは大きく、虫眼鏡を通して見るぐらい目が巨大化していた。


私は話しかけた。


「何の本を読んでいるのですか?」


「え?」


私を見上げて固まったままになる。


「本、何を読んでるのですか?」


昔の私の口がパクパクした。空気以外は何も出てこなかった。

そしてそのまま手元の本を机の下に隠した。可愛いじゃないか。


「い、いえ、別に何も」


蚊のような声で聞き取りにくかった。


「タイムマシンについて調べているのではないですか?」


私は昔の私に声のトーンを合わせて囁いた。


昔の私は驚いてしまって、恥ずかしそうに周りをキョロキョロ見渡した。まるで誰かが自分を指差して笑うのを恐れているようだった。それもそうだった。昔の私はタイムマシンを作るのが夢だなんて、恥ずかしくて誰にも親にも言えなかった。


「クリスマスイブなのに、図書館で勉強って真面目ですね」


昔の私は私の手元に置いてある本を見て、目を丸めた。虫眼鏡のような眼鏡が目を気持ち悪いぐらい大きくしていた。私も視線につられて下を見ると「性の歴史、男と女の秘密」という写真集の本のタイトルが目に飛び込んでいて、その下では裸の男と女が絡み合う写真のワイドショットが載って合った。ああ、やってしまった。


私は首を振って、会話を進める。


「・・・・ポールとは今夜会う予定ですか?」


昔の私は本をバンッと閉じた。

あまりにも突然の動き、そして大きな音だったので私もビクッとする。


「ポ、ポールをな、なんで知っているの?」


昔の私の声は大きかった。顔も赤い。そして大声を出したことにすぐに気がついて、身を小さくした。


私も身を屈めて昔の私にコッソリと言った。


「知っていますわ、そのほかの事も色々。ポールと、今夜会いに行ったらどうですか?」


気狂いだ。昔の私はそんな顔つきをしてこちらを見ていた。


「・・・ポールとはもう会いに行きません!あんな奴、最低な男ですわ」


「許してやりなさい」


「はい?」


「許しなさい。貴方の方から謝りに行きなさい。今からでも遅くない。負けるが勝ちよ。今行きなさい」


その途端、私の咳が始まって喉奥からトロッとした物が口の中に這い上がってきた。一気に口の中で血の味が広がり、口元を手で抑えるけども、甲の上を赤い血が流れるのを止めることができなかった。


「だ、だいじょうぶですか?」


そう昔の私に聞かれて、私は片手を振って大丈夫だと伝える。


いや、本当は大丈夫じゃないという事を伝えないといけないのだけど。


「タ、タイムマシンなんか作らない方がいい」


「え?は?え?」


「お願いだからタイムマシンより男のポールを選んで」


その瞬間、私の咳よりも遥かに大きな男の声が太鼓を叩くように轟いた。


「いたーっ!」


聞き覚えのある男の声。何年間も一緒に過ごして来たスタッフ。昔の私の後ろを覗き込むと、本棚の向こうにサイモンが鼻を荒くして立っていた。顔が真っ赤。指を私に指していて、片方の手を激しくパタパタ動かして誰かを呼び寄せていた。


サイモンの足取りは危うかった。


「逃げられると思ったのか。バトル・ブロンプトンのレーダーの力をなめるな!」


そしてサイモンはその場で口に手を当てたかと思うと、本棚に向かって吐き始めた。


私は悪態をついて、サイモンの方に呆気を取られている昔の私の襟を掴んだ。


昔の私を宙に釣り上げる。


その拍子に机の上の本や筆箱が床に飛び散る。


ここで伝えなければ。何故私がここに来たのかを言わなければ。私は怪獣が登場するシーンみたいに、ありったけの大声を腹から出して昔の私に吠えた。


「おい!お前、ポールの所に行け!好きなんだろ!ポールが好きなんだろ?ポールと別れるな!わかったな!謝るんだ!」


昔の私は怖そうに目を閉じていた。メガネが半分顔からズリ落ちていて、本当に私の声が聞こえたのかが分からない。


「いいか、私はお前なんだよ!」


次の瞬間、モナリザ女が間に飛び込んで私の腕を振り払った。


「エ、え、絵、え、レナさん、私をだ、だ騙しましたね」


モナリザ女の目は赤く涙ぐんでいた。私が答える前に、今度はサイモンが私の肩を掴んで、バレーのデュエットのように天井に向かって私を持ち上げていた。


昔の私が視野の中から消えた。私の体は白いペンキで塗られた天井と光を反射して輝くシャンデリアを向いていた。


「勉強なんてしてんじゃねえよ、クリスマスイブに!馬鹿野郎」


天井に向かって叫ぶ私の目からは、涙が大量に流れて床にポタポタ落ちていた。私は足と腕をバタつかせてサイモンの腕を解いて、床に落っこちた。


背中に衝撃を受けた途端、うわっ、と口から言葉が飛び出た。でも同時に今度はモナリザ女が私の口を抑えに飛びかかっていた。


「むぐおお!」


モナリザ女が昔の私を見る。


「す、すみません。き、き、き、き、き・・・・・・」


「気にするベラからず!」


サイモンが代わりに叫んだ。


すかさず私はモナリザ女の手に噛み付く。


「いや、痛い!」


モナリザ女が悲鳴をあげる。


「タイムマシンなんて、タイムマシンなんて作るなあ」


プフア!私は息を思いっきり吸う。


私はサイモンの肩に垂れ下がるショルダーバッグのようにそのまま図書館の出口に向かって運ばれていた。昔の私がどんどん視界の中で小さくなる。いや、涙でボヤけて見えなくなっていた。


足をバタバタさせて、サイモンの胸を何発かキックをしたけど、何も効かないようだった。


「愛を選べええ!!!」


私の蹴りが側の本棚を蹴り倒す。大きな本が何冊も床の上に次々と散らばる。


「神聖なる図書館がー!なんて事をするんじゃ」


初老の男の怒鳴り声がした。


「早くこの女を出さんかい」


今度は私の蹴りが初老の男の口の中に食い込み、初老の男が宙に吹っ飛んだ。


「死ぬ時に手を握ってくれるのは仕事じゃねえんだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


涙が止まらなくない。


「さ、サイモン、もっ、もっと早く行って!」


モナリザ女の悲願の声。


「ううう。ラジャー!しかしバトルスターのエンジンが限界に!」


「そ、っっそんんんなの、ど、どうでもい、いから!」


悲鳴をあげながら初老の男は図書館のドアを押し破った。同時に外の空気が鋭い風の音と共に図書館の中に流れ込む。


私は最後に両手でドアの横の壁を握る。誰かに指を剥がされながらありったけの声を図書館の中に向かって絞り出す。


「タイムマシンなんて、タイムマシンなんて!人を選べえええええおおお?」


私は雪の降る外の世界に投げ出された。


こうして私の過去への旅、人類の歴史を変える旅が終わった。


★★★★★★★★★★★★★★★★★


図書館に残された女の子は、図書館の時計の針がチクタク進む音を聞きながらその場に立ち竦んでいた。何が起きたのかが分からなかった。


メガネを掛け直した時、足元に何かが落ちているのに気がつく。


あの気狂いなオバさんの物なのだろうか。


元々白かった裏が茶色になっていて、セロテープで破れたいくつかの箇所がくっつけられていた。ひっくり返すと、そこにはポール、そして『自分』が笑っていた。驚きを隠せず、写真を床に落としてしまう。


同時に動物のような泣き声が図書館の中でした。女の子が近寄ると、そこには初老の男が散らばった本の前に座り込んでいて、涙を流していた。


携帯が震え始める。画面を見るとポールの名前が浮かび上がっていた。女の子は赤ボタンを押して電話を切り、コートのポケットの中に携帯を押し戻した。


初老の男に声をかける。


「わ、私じゃないんですけど、その、謝りたい気持ちが何故かあって、自分のせいなのかが、わからないんですけど、自分がやってしまったみたいな、だから、その、ごめんなさい」


初老の男は女の子を睨んで吠えた。


「出て行け!」


叱られて図書館の外に駆け出す。ドアを開けると外は真っ暗で、寒くて、雪がまだ降っていた。


女の子は携帯を取り出す。そして画面のボタンを押し始めて、耳に携帯を当てた。


「ポール?」


そして深呼吸する。


「今朝はごめんね。い、今からそっちに行ってもいい?仲直りしたいの」


★★★★★★★★★★★★★



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タイムマシン @Kairan

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