その2


 ハムコが病気になって入院したって。

 結構危険な状態なんだって。


 電話でクラスメイトからの連絡を受けた時、私はたいした反応も示さなかった。


「わかった。明日でも、ガチャコを誘って見舞いでも行くわ」



 最後にハムコにあったのは、三日前だ。

 講義が終わるのを、学食でお茶を飲みながら待っていたのだろう。私の姿を見つけると、彼女はすぐに立ち上がった。散歩に連れていってもらえる飼い犬のような、そんな笑顔がこぼれている。

 その時の私は、サークル室に戻る途中で、ほかの仲間とともにいた。

 絵画サークルの会長になったばかり。私は展示会の打ち合わせなどで多忙だった。

 一緒に帰ろうという彼女の誘いを、即座に断った。彼女は、すがるような目をして、私を見つめていた。


「うん……わかった」


 私が最近、付き合いが悪いことを感じて、彼女はすっかりしょぼくれていた。


 風邪気味みたい……とは言っていたが、私たち友人は気にしていなかった。

 ハムコはあまえっ子で、何かあると、すぐに、痛いとか具合が悪いとか、とにかく弱音を吐いていたからだ。

 ようするに、最後に会ったときは元気だった。

 元気だったから、結構危険な状態などという言葉は、言葉のままに私の頭を素通りしていた。


 ガチャコは、二日前にハムコに会っていた。


「風邪が悪くなって、別れ際、病院よって帰るとは言っていたけれど……」


 入院するとは、ガチャコも思わなかったらしい。


「うん、かなり悪いみたいだから、きっと食べ物のお見舞いはだめだね。お花にしようか?」


 私たちは花を買い、電車に乗って病院に向かった。

 さすがに楽しい話にはならなかった。が、たいした深刻な話にもならない。


「お母さんが田舎から来ているみたいだから……」


「結構、年齢いってからの一人娘だったよね? 心配でしょうね」


「お菓子とかでもよかったかな? だってハムコが食べられなくても、お母さんは食べられるよ」


「お母さん、励ましてあげたいね」



 病院は改装・建替えが進んでいたが、ハムコのいる病棟は古いままだった。

 薄暗い廊下を神妙な面持ちで私たちは進んだ。すれ違う患者たちが、点滴袋を下げて幽霊のような足取りで歩いてゆく。

 健康そのものの私たちには、あまり縁のないところだ。

 いくら大学病院とはいえ、ここにいたら暗い気持ちになって、治るものも治りそうにない。

 そんなことを考えていると、廊下にいた初老の女性が私たちに気がつき、歩み寄った。


「公子のお友達ですね……。わざわざありがとうございます。さ、どうぞ」


 公子とは、ハムコの本名。

 

 私たちはみんな、サークル・ネームという大学でしか通じない名前で呼び合い、中には本名すら知らない友達すらいたのだ。

 ハムコのお母さんだった。かなり疲れ切った様子だったが、向こうから挨拶してきてくれた。

 たぶん、入学式で一度ちらっと顔を見た程度の面識だ。このような状況で、初対面のお母さんに、どうやって声をかければいいのか、正直いって思いつかなかったので、私たちはほっとした。

 しかし、入ろうとした病室の前で、私たちは緊張し、足が止まった。


「いえ、いいんです。あなたたちは……。どうぞ、はいってください」


 お母さんの言葉を受け、躊躇しながらも私たちは病室に入っていった。

 ドアには「面会謝絶」の文字が踊っていた。


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 この時の衝撃は忘れられない。

 最初に目に入ったのは、六人はいるだろう白衣の医者の後姿だった。横に看護婦も立っていた。

 忙しなく響く人工呼吸器の音と、ピッピッピッとなる機械音。モニターの画面が、脈やら脳波やらを示しているのか、医者が緊迫しながら観察している。

 一緒に入ったガチャコは、「うっ…」と小さな声を漏らすと、そのまま固まってしまった。ガチャコの大きな目が、幕を張ったように涙で覆われた。まるで粘着力があるかのように、涙は落ちてこなかった。


「どうぞ……もっと近づいて、会ってあげてください」


 お母さんの声にも、ガチャコは動くことができない。

 私はそっと、医者と医者の隙間から、ハムコの姿を一目見ようと試みた。



 私は一言も声が出なかった。

 ハムコは……まるで洗濯機のホースのようなものを無理やりくわえさせられていた。

 そこからひっきりなしに空気が送りこまれ、風船のように顔といい、体といい、膨らんだり縮んだりしている。皮膚はパンと張り詰めてプラスチックで作られたようだった。

 そして何よりも……目だ。

 コロコロ楽しそうに笑っていた目は、無表情で瞬きもなく見開かれたままで、顔と共に人工呼吸器の動きにしたがって上下しているだけだった。苦しそうに見える膨張の時も、膨張前の収縮の時も、何の変化もない。どこも見ていない瞳。

 これは、まさに死人の目だった。



 私たちはいたたまれず、病室を抜け出した。

 お母さんにかけてあげようと思っていた言葉は、すでに頭から消え去った。

 ショックを隠しきれない私たちに、いたわりの声をかけてくれたのは、お母さんのほうだった。


「忙しいところ、会いに来てくれて本当にありがとう……。お花、持ってきてくれたんですね。公子もよろこびます」


 私は、渡そうと思っていた花を、思わず後手に隠してしまった。花など買ってきたことが、とっても申し訳ない気持ちになってしまったのだ。

 私は安易だった。

 お花だって? お菓子だって? 

 まるでハムコが盲腸ででも入院しているかのような、思い違いだ。

 一週間もしたら退院して、またいつもの毎日になると、勘違いしていたのだ。

 それどころか、風邪ごときで親まで田舎から呼び出すハムコを、

「あまえっ子だな。本当にもう……」

 と、内心あきれていたのではないだろうか? 甘いのは私のほうだった。後ろめたい。


 危険な状態……。


 私たちは、命が危ないと聞いていながら、それをまったく理解していなかった。

 というよりも、「死」ということがどのようなことなのかさえ知らなかった。

 私たちはまだ若く、死ははるか遠くの出来事だった。

 友人が死ぬかもしれない……ということ。

 いや違う……。

ハムコを見て初めてわかった。


「ハムコは死ぬ。まちがいなく死ぬ」


 ガチャコと私は、否応なく確信させられた。

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