第39話 パキる

「くくぅ……」

 観客席に伝わる程、その課題に挑む選手の無念そうな表情がモニターに映し出される。


「時間切れ‼ 川崎選手。

 記録は0完登となります。皆さま、川崎選手に今一度、温かな拍手をお願いします‼ 」

 そのMCの言葉で、遂に少女は惨めさに耐えられずその場に泣き崩れた。


「ひどい……こんな、無茶な課題……」

 華のその呟きは、観客の誰もが思っていた事に違いない。

 公式課題が組まれる時、通常ならルートセッターチームで試行され達成可能が証明されるが、明らかに今回のこれはその度を越している。


 だが――同時に彼らの胸中には、予感にも似たその言葉が響き続ける。


 こんな悪魔的な課題でも――野村なら。成し遂げるのではないか?


 まるで、怖いもの見たさとも近しいその好奇心は会場全体を異様な空気で包み込んでいく。


「野村以外の選手にとっては最悪の空気だな」


 もうその谷寺の言葉に反応も出来ない程、華もまた一人のクライマーとしてその課題の狂気に目を奪われていた。その様子を見て谷寺は後頭部に両手を当てて不満とばかりにふんぞり返ると、ジッとその時を待つ。

 そこからは、まるで水を打ったように粛々と選手達のトライが行われた。小さな溜息と「ガンバ」とポツポツあがる声援。とてもじゃないが、ここから観た者にはこれが日本大会の決勝の舞台とは到底思えないだろう。


 そんな、会場の空気が変わったのが4人目の挑戦者。真土里のトライだった。


「だらぁああああーーー‼ 」

 静かな会場に響き渡る少女の咆哮。


「真土里選手すごい! 第4課題をアテンプト3で完登‼ これで最終課題を残して完登数を3に増やし単独でトップに躍り出ました‼ 」

 そんなMCの言葉をかき消すが如く。

「茶々~~~‼ すごいぞ~~~‼

 えらい‼ 」

 そんな温かな歓声が挙がり、先程までが嘘の様に会場が色めきだした。


「真土里は……限界だな」

 だがその空気を打ち消すかのように谷寺は呟く。


「で、でもムーヴにも力強さが見えるし、まだ体力には余力がありそうですが……」

 華の言葉に、眼を細めて谷寺は真土里を見つめたまま言う。

「身軽さはスポクラのボルダーという部門では、相当強い武器だ。

 だが、同時に大きな弱点ももつ」

 華は自分の掌を見て、その答えを既に知っていた。


耐久性スタミナ。準決勝の5課題、先までの準決勝とは比較にならない決勝、ここまでをアテンプトを繰り返しながら登り、先の第4課題では今日1課題で最多の3アテンプト。

 既に、筋力は乳酸で塗れ、ほとんどがまともに機能出来ない状態。その軽い身体を利用して関節と骨格で何とか支えているのだが……先の課題で明らかに左手の指を気にしていた。

 恐らく――パキったんだ」

 その聞き慣れない単語に華が眉を顰める。


「パキる――恐らくは、その時の衝撃を擬音で表したクライマーの専門用語だ。意味は、今言った通り。

 指の関節、又は筋がパキッと衝撃を以て痛む症状だ。

 発症した時はその多くが関節、筋にかなりの痛手を負っている。

 ハッキリ言って、即病院送り」

 華が、それを聞いて髪の毛を逆立てた。


「で、でも真土里さんは最終課題に挑もうと……‼ 」

 震えるその声に「ふぅ」と谷寺は息を吐く。


「……恐らく真土里自身も理解っている筈だ。

 この最終課題に、現状のコンディションでは万が一にも完登の可能性など無い事は……

 それでもな?

 それでも、あいつ達の中にあるクライマーの本能がそうさせるんだ。

 華。よく見ていろ。お前がもし、真土里と同じ状況になった時――お前は間違えず必ず棄権するんだ。一日でも長く――クライマーの人生を全うする為に」



 真土里が落下する度に、会場に悲鳴に似た声が響く。


「真土里選手……残り時間1分。ガンバです‼

 皆様、どうか頑張り続ける真土里選手に、声援を‼ 」

 MCの声が会場に伝わるが、誰もがその真土里の痛々しい姿に感情の高ぶりが冷める。


「無理なのが理解っているのに……

 怪我もしてるのに……なんで……なんで、真土里さんは諦めないんですか? 」

 そう俯く華を一目見ると、谷寺は無言のまま視線を舞台に戻す。


 制限時間は、既に使い切り――。されど真土里は遂に最終課題のその最後の一手に辿り着く。

 地から観ていた時のそれとはもう根本が違う。


 ――どうやってあそこに届けってのよ……。


 真土里は初めてトライ中に悔しさで胸が締め付けられる。だが、そんな事を考えている時間も無い。もう彼女の身体がそこに留まる事を許してくれない。

 彼女は、意を決すると膝を曲げ、タメを精一杯に付けて、跳躍した。

 だが、迎える光景は余りにも残酷なものだった。その手は目指したホールドと大きく離れたまま。重力に引かれ……。


「そこまで――。

 真土里選手、頑張りました‼

 記録は3完登。現在堂々の1位です。皆さま、今一度、真土里選手を温かな拍手でお見送り下さい‼ 」

 背中から落下した真土里は、マットに大の字になったままその拍手を受けて、震えながら右の前腕で瞳を隠しその小さな身体を更に震わせた。


 やがて、職員に連れられ彼女が奥に控えると――。



 会場の誰もが息を呑む音が聴こえる。


 そしてその空気の中、彼女が姿を現す。

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