第30話 観月

 会場は代々木公園オリンピック室内競技場。

 予想よりも遥かに、室内の気温は冷たかった。


 ――流石にマイナスとまではいかんだろうが、外気とそう変わらん状態だな……競技前には暖房がつくだろうが、体温の上昇までの気温は望めまい。

 谷寺はそこまで予想して「ちっ」と舌打ちを打つ。


「屋外だからと言って、環境を徹底せずに何が選手にベストを尽くせだ……あの頃と何も変わっていないじゃないか……」


 谷寺が、風見名月として出身国日本を代表してクライミングをしたのは過去3回。

 当時、ロッククライミングの先進国として名を轟かせていたフランス大会の時は、谷寺についたスポンサーは民間の中小企業が僅かに一件。それも、祖父の神社の関係だった会社だ。

 滞在費、フランスまでの交通代は自分持ちだった。

 そんな彼女には夢があった。

 それは、クライミングを日本全国に普及させる事。こんなとても楽しい事があるんだよと、自分の国の子ども達に伝える事だった。

 だが、その為には国が認める称号が必要だった。

 彼女は自分の才能と努力に疑いがなかった。それは誰にも負けない自信があった。

 それが、結果となり彼女の手に届いた。迎えるは順風満帆な彼女が描いた未来図であったろう。


 最高峰の舞台。フランスで華々しい活躍を経て。日本でもチラホラとクライミングが浸透した功労者アジア最強の女王として彼女は、ボルダリングの世界大会に臨む事になる。

 前もって大体的に日本でもマスコミが動き話題となったこの大会。これが、彼女の夢への第一歩――となる筈だった。


 彼女はそこで、世界の壁に直撃する。

 世界の壁で或る事には変わりない、その大きな壁は。

 同じ日本人選手。しかも当時小学生だった野村晶。

 自分の半分ほどの歳のその少女に――谷寺は本当の才能を知る。


 4つも決まっていたスポンサーはその大会の後、あっという間に彼女から離れて天才ボルダリング少女に鞍替えした。しかもスポンサーは彼女個人をアイドルの様に囃し立てるだけで、スポーツクライミングの普及の意味合いは全くこなす事もなかった。


 それが、彼女を焦らせたのか。

 翌年のロッククライミングフランス大会に、現女王として挑んだ彼女はクライミング中に事故を起こし、腰椎を骨折。

 短いそのクライミング人生を終える。更にそのニュースで特に安全性を重視する日本のスポクラへの風当たりは強いものとなり――皮肉な事に、彼女の事故でクライミングは国内に浸透する。

 『危険な競技』として。


 そんな彼女を支えたのが、当時研修医だった和樹だった。

 初めての担当患者という事もあったのか。それとも和樹の腕か。とても手厚い医療によって面白い表現だが……彼女は再び歩く事を手にしたのだ。


 そんな彼女の功績を評価していたスポクラ協会から、国際ルートセッターの仕事も与えられていた彼女に、関係者からある日こんな話が来た。

「野村が、広島で面白い娘を見つけたと言っている。

 だが自分ではもう教えれる事は無いが、是非『風見さんなら』と君を薦めているんだ。動画だけでも見てやってくれないか? 」

 ――何の事やらと思った。そもそも、自分より遥かに才気に溢れた野村が太鼓判を推した様な選手に、自分が何を教えれるものかと。

 そう思い、断るつもりで視たそのビデオに映った少女を見て。

 野村を見た時以上の衝撃を受けた。

 

 恵まれているとは言えない、東洋人女性としても小柄なその身体に必死で詰め込んだ筋肉とか。その身体の異常なバネとか。彼女に対して見るのはそんなものじゃない。


 ――なんて、楽しそうに登るんだ……。

 気付けば、彼女はその少女に釘付けになっていた。

 そして、確信する。野村が何故彼女を自分に任せたのかを。彼女はきっと誰に教わっても間違いなく天才と呼ばれる選手になるだろう。

 それが、解る者だけが理解出来る。

 ――この娘をただの天才クライマーにしてはいけない。という事実。


 凪海継葉――。

 彼女なら、自分や……あの野村ですら出来なかった……観衆の意志を動かす事がきっとできる。クライミングの楽しさを。知らない人にそのトライを画面越し見せるだけで伝える事が出来るチカラ。

 それこそが――継葉の本当の強さ。

 クライミングに携った選手達が――待ち望んでいた存在。


 その葉は織部に染まる間もなく、萌木色のまま散った。


 ――私を責めてくれ。

「本当に、谷寺先生にはあの娘の世話を沢山お掛けして……」

 ――誰か、私を責めてくれ。

「名月くん、この度は残念だったね。気を落とさずに。なに、次のオリンピックでは野村くんが居る。大丈夫だ。そして――君はまた国際ルートセッターとして協会に手を貸してくれるね? 」

 ――止めてくれ……どうして皆触れないように……気を遣うんだ……


「先生‼ 」

 その声に、谷寺は「ハッ」と瞳を正面に戻した。


「先生。では行ってきます」

 大きな白のベンチコートに身を包んだ一花と、厚手のピンクのダウンジャケットの華が並んでこちらを見ている。


「ああ……、怪我に気をつけるんだぞ……」

 まるで、霞む様に。その少女の顔が2人に視えた。


「ねぇ、めいちゃん。

 めいちゃんって、すごいね。

 いっつもとぼけてる様な事言ってて。

 めいちゃんの言う通りにすると……出来なかった事が出来るようになる。

 でもね、めいちゃん。

 お姉ちゃんもね――すごいんだよ」


 ――ああ、知ってるよ。継葉。

 一花に言ったあの言葉も。

 あの言葉も。

 全ては自分に言い聞かせる言葉だと知っていた。


「さぁ、華。わたし達も行くとしようか」

 彼女の言葉に、華は頷くとその後ろへ着いて行く。

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