第27話 華

「――開始だ‼ 」

 谷寺のその言葉の瞬間、一花は初めて彼女のその目を見た。


 目標を見ている様で……その視線の先は。


 そして次の瞬間。華は眼光の残像を残し凄まじい速度で初手を掴んだ。


 最初の一花と同様。右手で三角錐みたいなホールドをオーバーハンド・ピンチグリップで捉える。それを見て一花は思う。


 ――華‼ それでは続かないんだ。その初手は先生が仕掛けた罠……。

 だが、次の瞬間彼女の心臓が大きく跳ねる事になる。


「おお……」そして谷寺が嬉しそうに声を漏らした。


 その華の行動は――。

 右手のホールドを中心とした――身体の円回転。反時計回りでグルっと豪快にその小さな身体を回すと、次のカチホールドに本来届く筈のない左足が在る。

 まるで、サーカスのアクロバティックの様なダイナミックムーヴ‼


 思わず、一花は開口したままその光景を見つめる。座ったままの原因は体力の消耗だけでない。

 そして、一瞬にして一花の最終到達点に辿り着くと華は、ジッとその先を見据える。

 次の瞬間。僅かだけゴミカチに乗った右膝を曲げると――たったそれだけの反動を利用して華は跳躍んだ。


 ――跳躍ラ……ランジ

 その彼女の背中に――妹の影が重なる。


 だが、華の跳躍は不充分な飛距離に終わる。思いっきり腕を振るがカスる事もなくその手は虚しく空を掻く。


 落下――。が、それと同時に華は右手と両足の3点着地を行い、まるで時間を惜しむ様に即座に再トライを決行。


「30秒経過だー」

 ――30秒‼

 幾ら体力が万全と言えど急ピッチ過ぎる。あまりに無謀だ。

 一花は目をパチクリと弾かせながら飛び跳ねる華の背中を見る。


 ――だが2度目のトライは、最初のホールドで支点である右腕のグリップが外れ、壁に鼻をぶつけて落ちる。


「あっ‼ 」

 ぶつけた鼻からタラタラと出血が起きマットにぽたぽたと朱を彩る。


「華、ほらこれを……」そう言って、ハンカチを手渡そうとする一花の横を一陣の風が吹き去った。


 一花が近付いた事すら恐らく、気付いていなかった事だろう。

 手首で乱雑に鼻を擦り、その顔を不細工に血化粧で施し――されど彼女の瞳には壁しか映っていなかったのだ。


伝心わかるか? 一花。

 視えるか? 一花。今の華の瞳の中が」

 彼女の背後からゆっくりと寺谷が近付くと、まるで諭すかのように語り始める。一花はその言葉を聴きながらも、その少女のクライミングから目を離せない。


 何故か?

 それは、とても単純で明確な理由が当て嵌る。

 ――何故?

 一花の心臓が一度響く様に弾む。

 ――華、何で。

 そして、下唇をギュッと噛む。こんな思いいつ以来だ? 一花は直ぐに気付く。つい最近思い出した時の思いだから。

 ――なんで、そんなに楽しそうな顔で……登ってるの⁉


 そんな問い。

 尋ねるだけ無粋だ。


 一花のその表情を見て、谷寺は続けた。


「気付いたか、一花。

 そうだ。お前が忘れ――華には見えていた事。

 それは」


 華は、反時計回りの回転を成功させ、再び一花が挫けた箇所へ挑む。


「楽しむ事」

 谷寺の言葉が、ズキリ――とその胸を刺す。


「あいつは今、勝負の事も忘れ……いや、その事は憶えているかもしれんが、その事はどうでもよくなっているんだ。ただ、ひたすらに目の前の課題をこなす。失敗したなら次の手を打って。それがダメなら更に次の手を。

 5分という制限時間の中で――あいつは1秒もあの課題から離れるつもりは無い筈だ。

 それが……クライミングを楽しむという事。

 そして……それこそが」


 華の手は、再び空を切る。

 だが、先程の再生の様に、彼女は荒い息のまま課題に跳び向かう。


「私達、クライマーが決して忘れてはならない事なんだ。

 一花。お前はそれを抑えようとし過ぎている。

 確かに、冷静さは必要だ。が――情熱と冷静は相反するものでない」


 一花の瞳がどんどんと憂いを帯びていく。


「灼熱の衝動を――抑える実感も否定する必要も初めからない。

 肝要なのはそれを受け入れる事。

 何より――その全てがお前自身なのだからだ」


 そこまで谷寺が言い切った時。

 一花の肩が喜びで一度跳ねる。


 自分が困難として挫折した、その高き――高き壁を。


 今――。

 自分より遥かに実力も技術も劣る少女が。


「……届いたか。

 アテンプト数5……天塚華、完登だな」


 ――やはり、華。あの壁は、お前が消し去ってくれたな。

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