第26話 花

「さぁ――覚悟はできたか? 一花」

 谷寺が顔をにやつかせて、そう尋ねると一花は仁王立ちで彼女の前に立つ。

「先生こそきちんと、約束は守って下さいね……」

 一切の柔和のない抑揚で放たれたその言葉を受けて。

「ははは、それは勝ってから言えよ」

 と、挑発する様に谷寺は嘲嗤う。


「よし――では、華も前に来い。

 オブザベーションは2分間。それでは……開始だ」


 そう言われて、慌てて駆け寄ると華はその5メートルの高さに彩られたホールドを見上げた。


 ――何だろう? こんな課題はした事がない。


 華は、その配置を見て指で指し示しながら手順を探していく。

「い、一花先輩。あのホールドってどうやって……」

 しかし優しく丁寧にその問い掛けに答えてくれていた、一花はそこには居なかった。

「先輩……」

「ごめん、華。集中したいから」

 ピシャリと、華の声を切断する様な声でそれを受けた華はビクンと背中を伸ばす。


 そしてしょんぼりと肩を落とすと再び彼女は課題を眺めた。


 ――あそこに手を伸ばすには、どういう体勢で臨めばよいのだろう? ではそこまでの手順は? 初手から順序が決められている?


 見れば見る程不思議なその課題を見つめている内に。

 先程まで……不安で。悲しくて。どうしようもなかったその小さな胸に。

 熱い血潮が確かに巡る。


「よし、そろそろ2分経過だ~。

 覚悟はできたか~? 一花ぁ~」

 一花は、それを聞くとチョークバッグに手を入れて指をはたいた。そして歯を食いしばり、谷寺を睨むと。


「その先生の喋り方……私、実は前から大嫌いでした」

 と、相手の反応を見る気もなく吐き捨てて課題に向かった。

 その様子を見た谷寺は華の方に、両手を開いてお道化て見せる。


「さて……では、開始」

 言葉と同時に、谷寺はストップウォッチのボタンを押す。

 それに重なり、一花が初手。身体を壁に押し付ける様に密着して、右手で三角錐の様なホールドを掴み、足元のホールドをそれぞれ左右のフロントエッジに掛ける


「華……あの、右手の掴み方をしっかり見て置け――オーバーハンド・ピンチグリップという握りだ。あーゆー角々しいホールドにはとても有効だ」

 一花のトライを見つめながら――谷寺は教える様に華に語り掛ける。


「お前のリーチでは一花と大分違うから、同じ様な体勢ではいかないが……そこは自分で工夫して考えろ」

 それを聞いて華は自分の手と、そのホールドを遠くから重ねる様にイメージを描く。その様子を見て、谷寺は口角を上げ――視線を一花に戻す。


 ――さて、一花。まずは合格点と言っておこう。だが、その先の私からの問い。今のお前に見えるかな? その意図が……。


 ――……なんだ? 次のホールドが……遠すぎる……。

 一花は、その体勢になり初めて理解する。この課題は――初手で間違うと達成できない。


 ――やられた……一撃殺しにまんまと引っかかった……。

 そう思った時に一花は歯痒さから奥歯を噛みしめ、後ろでふふんと笑みを浮かべる谷寺を睨んだ。


「オブザベーションの時に、イメージできなかったか? 一花。

 ほら、ガンバ。ガンバ」そう言って、両手を軽薄に叩く。


 ――馬鹿に……しやがって‼

 今一度奥歯を噛みしめると、一花は視線を向き合うべき壁に戻す。既に保持している腕の筋肉に乳酸が溜まり、疲労を神経から伝えてくる。

 迷う時間はない。一花はそう判断すると、ホールドを離しマットに落下した。


「アテンプト」

 すかさず谷寺が告げるが、それを無視し深呼吸を2度行うと、一花は再度課題を見上げた。


 ――初手で手元のホールドを掴んでしまうと、次の上位置のホールドに手が届かない……つまり、手元のホールドには足を掛ける必要があるが、そうなると今度はどこをホールディングする?


 全ての光景を眺め――大きく息を吐くと迷いのない瞳で、一花は挑む。


「さて、どうなる事やら」ふふんと、鼻で笑うと谷寺は心底楽しそうにそれを見つめる。

 そして、彼女も同じ様に――自分の手を宙で舞わせながら。


「がっふぅっ――ふっぅ‼ 」トライの度、スタミナが削られるのは自然の原理だとは常識ではあるが、現在の一花はそもそもの体力が減少している事もあり、その疲労は並みのものではない。この異様な呼吸と汗がそれを物語っている。


 ――ここまでくれば……

 一花はまるで窓に這うヤモリのように、壁に身体を吸い付かせると、ずりずりとホールドまでの距離を縮めていく。


 その方法には、谷寺は感心した様に「ほぅ、鈍角壁スラブを利用するか。これは面白いな‼ 」と声を挙げた。


 ――も……もう少し……あぁっ‼

 もう僅かで届きそうだった一花の腕が地に吸い寄せられた。

 掛けていたエッジが滑り、そのまま落下。


「くそっ‼ 」

 一花は、落下と同時に悔しさを隠さず、マットを拳で叩く。


「残り――59秒だ~」谷寺がすかさず言葉を掛ける。

「くっ――‼ 」一花は、立ち上がるとまるで気を落ち着かせる様に再び、深呼吸を行い胸に手を当てる。

 ――今の方法は、よかった‼ 後はあそこまでどうやって体力を温存するかだ。なれば、残り時間ギリギリまでレストし、体力を回復させて……次のトライに懸ける‼


 一花の判断は模範的と言える。

 手順が見えたのなら、悪戯に体力を消費せず最高の状態で臨む。理に適った作戦だ。


「残り10秒~」

 そこで、一花は始動す。

 初手からそこまでは先と同じ。

「時間終了だ~」ボルダリングのルール上、トライ中に時間が終了すればそのトライが終了するまでは制限内となる。つまり、残り1秒でもトライをすればラストチャンスは得られる。先の一花の作戦が理に適っていたのはこのルールの為だ。


 そして、再度身体を吸い付かせて、亀の歩みが如くそのホールドへじりじりと進む。

 もう、手を振れば爪先がかする程だ。


「先輩‼ ガンバ‼ 」華も両手を熱く握りそれを見守る。

 が――一転、谷寺はそれをとても静かに見守る。この勝負を持ちかけた彼女だから解っていたのかもしれない。

 最後の僅かの距離。

 一花は選択を迫られる――筋力の消費を呑みこのまま進むか。

 滑落のリスクを背負い、曲がっている膝を伸ばし身体のリードを引き延ばすか。

 そして、この選択の解答時間は有って無い。即座に判断しなければ――どちらも得る事の出来ない愚行へ変換る。


 ――このままっ‼ 進む。

 それは、とても一花らしい選択だった、慎重に慎重を重ね9割の確率を10割に近付ける。この消耗状態でそれを択ぶ精神力の高さ。

 谷寺は、それを最大限に評価する――。

 だが、その選択の是非はもう間もなく現実が証明す――。


「あ‼ 」

 華の悲痛な叫びと共に、一花は宙の糸を掴むが如く腕を大きく泳がせる。

 しかし――虚しく指先がホールドに擦れると、その身体は横からマットに落下した。


「完登失敗……だな」

 谷寺のその言葉に「くそーーー‼ 」と一花は悔しさを隠さずに叫ぶ。


 谷寺はその様子を見て怖がるように肩を竦めた華を横目で見ると「何をしている? 華。すぐにお前の番だぞ」と、冷淡に伝える。

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