第25話 火花

 凪海一花は暗闇の中に居た。

 足が地に付いている様な感覚があれば――水の中に漂っている様な感覚もある。

 心地良い――ずっとそのままそこに漂っていたい程に。


 だが、何故か?

 そこに居続けてはいけないと、自分の心底が焦らせる様に胸を騒がせる。

 霞の向こうに人影が見える。その者の傍に行こうとすると――何故かその者は近づいた分離れていく。


 歩む足が少しずつ早くなる。


「どおして⁉

 どおして、私から離れるの⁉ 」


 その足は既に全力で駆けている。

 そして、まるで欠片が一つずつ当てはまる様に景色が完成していく。


「継葉――‼ 」



 全身を跳ねさせて、一花は目覚めた。

 呼吸は乱れ鼓動が大きすぎて、心臓が体中に幾つもあるみたいだ。


「目が覚めたか」

 眼前で谷寺が椅子に座ってこちらを見下ろしている。


「丁度、点滴を抜いた所だったよ。

 今日はもう日が暮れた。

 しっかりと身体を休めるといい。

 冷めてしまったが――かなり自信作の鳥雑炊だ。よく噛んで食べるんだぞ」


 そう言うと目の前に盆が置かれるが、それを眺めるだけで一花は手を付けようとしない。

「もう少しだけ、練習をしてから休ませて頂きます」

 そう言うと、立ち上がるが直ぐに膝が笑うのか、その場に崩れ落ちた。


「無茶をすると止める約束だったよな? 」

 一花は目を見開いてキッと谷寺を睨んだ。

「では、私も言わせて頂きます!

 先生は、何故私にクライミングを教えて下さらないんですか⁉ 」

 容易に感情が読み取れる言葉だ。谷寺は腕を組むと大きく息を吐いた。


「気付かないか?

 今のお前は、私を頼っている様でその実――全く私を信用していない。

 それが見抜けぬ程、私も呆けてはいないよ。

 ……まぁ、そうだな。

 口で言っても一花、今のお前は納得も理解も出来ないだろう。

 だから、実際に今の自分がどれ程意味のない、鍛錬とも呼べない無意味な浪費をしているかを知るといい」

 一花は、その言葉の意味を伺う様に、視線をぶつける。


「私が出す課題を、華と競ってみろ。

 そして、お前が華に勝てたなら」

 谷寺はわざと、笑みを浮かべて言葉を溜めた。


「いいだろう。お前が言う私が持つというクライミングの極意とやらを全て教えてやる」

 そして、更に一花を侮辱する様な笑みを続けた。


「……華は、まだ経験も浅い初心者です。

 一体どういう意図なのかは解りませんが。

 私にとってプラスになるなどとは思えません」


「勝てんよ」

 一花の言葉を遮る様に、谷寺は強く言葉を吐く。

「日本大会? 無駄だよ、一花。

 今のお前は、大切な物を見失ってただ登っているだけだ。

 そんなお前が幾らここで鍛錬を積んだところで、全国の本物達にはかないっこないよ」


「見失う……? 」

 ここまで谷寺と一花が互いに敵意を表すのは初めての事だ。

 只ならぬ空気が周囲を包む。


「解りました。

 先生が何を仰りたいのかも解りませんが、負けた時の二言は通用しませんのであしからず。

 そして、華を利用する事で私が油断するとお思いなのでしょうが、それも在り得ないという事を先に伝えておきます」

 それを強い口調で言うと、ふらつく足を必死に堪えて傍に置いてあったチョークバッグを腰に巻く。


「華、いいぞ」

 寺谷の呼ぶ声で、戸が開き少女が入室する。

 その少女の出で立ちを見て、一花は一瞬息を呑んだ。

「流石に、制服のスカートでは危ないからな。

 私が小学生の時に使っていたユニフォームを着てもらった」


 外見効果――。


 一花は彼女のその出で立ちに、一瞬怯んだ自分に言い聞かせるように心の中で繰り返した。

 そして、これを小細工と判断する。

 谷寺は自分への嫌がらせで精神攻撃を行い、自分の決意を挫こうとしていると。


「一花先輩」

 自分を呼ぶ少女。小柄なその身体に更なって稼働を制限しない、最低限の露出の衣服。

「似合ってるね。華。

 でも、もし危ないと思ったら無理しないのよ」

 華は、それを聞いて少し悲しそうな表情を浮かべた後「はい」と明るさを込めて返した。


「時間も遅いから、勝負は1回勝負。今から私が作る課題に挑戦してもらう。

 勝敗は、一撃、フラッシュ、完登の順で、ボーナスホールドはなし。

 挑戦時間は5分で、オブザベーションは2分とする。

 さて、では次は挑戦の順番だが……」


 一花が、即答する。

「私が先で結構です」

 谷寺は「いいのか? 負けた時の言い訳にならないか」と挑発し。

 一花は「勝った時に経験の差を言い訳にされたくありませんから」と応酬した。


 そもそも、先の谷寺が言った勝敗条件では、先に相手に登り方を見られるとしても不利にはならない。

 何故ならば一撃が最優先の勝利条件となっているからだ。

 つまり、先手にしか一撃の権利はない。一撃をとってしまえば勝利が確定する。


 一花はなるべく華の方を見ないように準備運動を始める。

 華には申し訳ないが、手加減をするつもりも谷寺の狙いであろう精神攻撃に屈するつもりもない。

 百の全力で一花は勝ちに行く。日本大会予選に向けて立ち止まって休んでいる暇などない。


 そんな一花の様子を見て、華も彼女の傍から離れ、ルートをセッティングしている谷寺の元へ行く。


「先生……あたし……一花先輩に勝つなんて……無理です……」

 その言葉に「ん? 」と谷寺がその手を止める。

 華は、しょんぼりとした感じで彼女を不安そうに上目づかいで見つめる。


 谷寺は、後頭部を掻くと――ポンと、その手で華の頭に手を乗せた。

「先生? 」

 突然の行動に、華は狼狽える。


「あーー……うん。そうだな。

 華、お前は勝てないかもしれない。

 でもな、華。

 わたしが頼んだあの事をお前が守ってくれたなら。

 勝てないかもしれんが、負ける事もない。それだけは憶えていてくれ」


 華の不安な表情はとけない。

 それを見て、谷寺は微笑みを浮かべるともう一度、その頭をぽんぽんと優しく叩き、ルートセッティングに戻ってしまった。

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