第24話 野暮用

「……う……」

 針の痛みからか、一花が呻いて反応を示す。


「やぁ、凪海さん。

 今、いつもの点滴とビタミン剤入れてるから。とりあえず3時間はそのままで。トイレに行きたい時は傍に居る人に手伝ってもらって」

 和樹と呼ばれた白衣の男性は、点滴の入っている逆手を掴むと手首に指を当てて脈拍を測定している。


「うん……スポーツに長けている君だから、多分この状態でも耐えれているんだろうね――ってくらいに弱ってる。正直ドクターストップだよ」

 その言葉に、一花がガバッと上半身を起こし、人とは思えない様な眼で彼を捉える。


「一花、まぁ騙されたと思って偶には休め。

 もう、予選まで日がない。休める時に休まないとその時間すら失うぞ」


 しかし、一花はキッと顔を挙げると。

「練習しなきゃ……今のままじゃ……駄目なんだ」と、ブツブツと繰り返すだけだ。


「仕方がない……和樹……頼む」

 その言葉を受けて和樹は点滴に何かを注射した。


 間もなく一花の首がだらしなく項垂れる。

「先輩⁉ 」慌てる華を谷寺が制する。


「大丈夫だ。そんなに強い睡眠導入薬じゃない。こいつの身体が休息を求めていたんだ。その事すら気付かぬ程、練習に明け暮れていた訳だ。

 全く――素直ないい子ちゃんそうに見えて継葉とは違う方向に頑固な奴だよ」


「呑気に言ってる場合じゃないよ。彼女の身に何かあれば法律的に免職は勿論。実刑つくからね、コレ。例え彼女が望んだとしても、軟禁して医師を24時間つけてボルダリングを中学生女子に強いる――正気の沙汰じゃない」

 白衣の男性――和樹は首を何度も横に振りながらそう言った。

「そう言いながら和樹、君も手伝ってくれてるじゃない」

 ハハハ、と笑いながら彼の肩を叩く。


 安らかな表情で眠る一花に毛布を掛け、華はその頭元に寄り添った。

「華、私が居るから大丈夫だぞ? 寒いだろう」

 谷寺がそう言うが、華は首を振ると体育座りのまま顔を膝に埋めた。


「こんなになるまで頑張って……先輩は、本当におバカさんです……」

 その様子を見て、谷寺は和樹を連れて部屋を後にする。


 2人だけの部屋は、寄り添わないと寒くて仕方がない。境内の方でストーブとエアコンが効いてはいるが、壁1枚で外のこの部屋は直ぐに気温が下がってしまう。


「一花先輩、でもこんなやり方だと……継葉先輩も……心配してると思います……」

 眠る彼女の顔も視ずに、華は囁いた。

 そして、同時に寄り添う少女が、とても可哀想に見えた。


 それは、家族を失ったからというよりも。


 華は、立ち上がると静かに胸元の高さのホールドを掴む。

 指の第一関節で掴むカチ。小さいホールドに有効な掴み方だ。

 そしてグッと身体を引き寄せると、大きく股を開いて肩の高さにあるホールドに踵で引っ掛ける技術、ヒールフック。

 そのまま今度はカチで掴んだ右腕を伸ばして、左手のリーチを広げて上に在ったホールドを掴めた。

「ふんっ」

 力強く息を吐くとそのホールドから体幹を左手と左足で引きつけ、右手のカチホールドに、右足のエッジでそれをかける。これで華の位置は丁度地面から自分一人分ほどの高さになった。

 だがそこまでで筋力が限界――。地面に目を落とすと、マットに飛び降りた。

 たったそこまでだったけど――その小さな胸には達成感がある。

 楽しかった。

 カチも、ヒールフックも。全部、全部ボルダリングの楽しい思い出の中のものだからだ。一花と、継葉と、谷寺と。暑い中、体育館のあの小さい練習用設備で必死に得た技術。誰かに見せるものでもなく、ただ自分だけに価値の有る技術。

 自己満足の心地良さは、快感となり。

 だからこそ、更に辛さを増す次の段階に進めるのだ。

 故に、華は疑問だった。

 一体、一花は今何を支えにあれ程の鍛錬に励めるのか。

 まるで、悪戯に自分を虐める様なトレーニングは、最早鍛錬と呼べるものであるのか?


 今一度、指を屈伸させると華はホールドを掴む。


「入るぞ」

 そう言って谷寺は盆に水と粥を2人前載せて部屋の戸を開いた。


「……おお」

 思わず、それに感嘆の溜息が零れた。

 高い壁に、小柄な少女が力の限り登っていくその姿。

 なんと生命力に溢れた光景だろう。


 盆を近くのテーブルに置くと、その少女に近付き間近でそれを眺める。

「良い表情だ。そうだ。その顔だ、華」

 その顔はまるで輝いている様な程。


 華が、マットに降りると谷寺は彼女に拍手を贈る。

「先生⁉ 」驚いて、彼女は少し仰け反った。

「……華、やっぱりお前を呼んで正解だった。

 一つ……野暮用を頼まれてくれないか? 」


 それだけ言うと、不安そうに眉を下げる彼女の耳元で谷寺は囁いた。


「え⁉ 」

 驚く華に谷寺はただ頷くだけだった。

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