第22話 遡時

《〇月▽日―くもり》

 おねえちゃんがどこかにいって遊んでくれなくなった。

 さみしい。さみしいからおねえちゃんのへやにいっておねえちゃんのまくらをもってきた。

 ママにおねえちゃんがどこにいったのかきくと、おねえちゃんはボルダリングというならいごとをはじめたときいた。

 ならいごとはやだな。

 おねえちゃん、ならいごとやめてまた毎日遊んでくれないかな


《〇月×日―晴れ》

 今日は、いっしょに5時からおねえちゃんとテレビでほんわかげきじょうを見ようってやくそくしたのに、おねえちゃんはボルダリングからかえってきませんでした。

 だからひとりで見ていると、ぜんぜん楽しくなかったです。

 おねえちゃんは、あんなにほんわかげきじょうが大すきだったのに、もうほんわかげきじょうよりも、あたしのことよりも。

 ボルダリングがすきなんです。

 そう思うと、とてもかなしかったです。


「……なに、書いてんだか……」

 そうして、開いた次の頁。一花はそれを読んで胸がドキリと高鳴った。


《〇月◇日―晴れ》

 今日もおねえちゃんはよるまでボルダリングにいきました。

 ばんごはんの時かんにもおくれ、あたしはママに先に食べていいよと言われました。

 おなかがすいていたけど。あたしはおねえちゃんと、むかえに行ったパパをまつことにしました。

 かえってきたおねえちゃんは、とても楽しそうに笑っています。

 あたしは、おなかが空いてたのでおこってました。

 だから、おねえちゃんにおこりました。

 すると、おねえちゃんは言いました。

「つぐもボルダリングしようよ」って。

 あたしが「できない」て言ったのに、おねえちゃんは。

「つぐといっしょにしたい」と言ってくれました。



 それを、読んだ瞬間。

 その日の光景が、一花の目の前に広がった。

 そうだ。あの日はあんまりしつこく妹が恨み節を連ねるもんだから、いっその事誘ってみたんだった。あの頃の継葉はまだ内気な面があって。だから、継葉にとっても他者との交流にもなっていいだろう位にしか思っていなかった。


 一花は何かに導かれる様に、頁を進める。


《▽月▽日―くもり》

 ボルダリングはむずかしい。

 小学校にある、てつぼうやぶらさがりぼうににているけど、どっちもあたしは苦手だった。

 あたしがんでる時も、おねえちゃんはのぼってる。

 とても楽しそうだ。

 おねえちゃんがあたしではなく、自分の楽しみのためにのぼっている。

 いつも、あたしの方を見て気にしてくれてたおねえちゃんが。

 きっと、あたしがボルダリングをやめてしまっても、おねえちゃんは続けるんだろう。

 そんなのいやだ。

 あたしもおねえちゃんと楽しくしたい。

 ボルダリングでも、なんでもいい。

 おねえちゃんといっしょがいい。


《■月▽▽日―晴れ》

 指の痛みもなれてきた。

 あいかわらず、おねえちゃんはかみらさんに必死でボルダリングをならってる。

 おねえちゃんはすごい。

 ジムに通ってる子どもは、あたしとおねえちゃんしかいないけど、おねえちゃんは大人の人といっしょにのぼってる。

 だけどおねえちゃんののぼってるのを見てると。

 ああしたらいいのになと思うことがある。

 こんど、自分でしてみよう。


《▲月▲△日―雨》

 あたしがのぼっていると、色んな人が声をかけてくれるようになった。

 今の、どうやったの? とか。なんで、そこでダイアゴナルを止めたの? とか。

 よくわかんない。ボルダリングの事なんか教えてもらってないから、自分でのぼれるやり方をおねえちゃんのしっぱいとかを見て、やってるだけだから。

 そうしてると、上らさんもあたしに付いてボルダリングを教えてくれるようになった。



 ずきん――と一花の胸に痛みが走る。

 この時の事は、朧気に憶えている。まだ、妹を気にしてはいなかったけど。


《■〇月〇〇日―晴れ》

 近ごろ、おねえちゃんが口をきいてくれない。

 あたしを見てもすぐに目を反らす。

 でも知ってる。

 ボルダリングの時は、あたしをずっと見ていてくれる事を。

 おねえちゃんが。

 あたしを見てくれている。

 その時から。

 ボルダリングが楽しくなった。


《■×日△日―くもり》

 上らさんから、コンペに出ないかと言われる。

 こないだのコンペはおねえちゃんだけが出ていた。

 今回のは全国の中学生以下のコンペらしい。

 おねえちゃんも、出ると聞いて。

 うれしかった。

 やっとおねえちゃんといっしょに出きるんだね。


《■×月■▼日―雨》

 コンペで優勝できた。うれしい。

 でもおねえちゃんは調子をくずしてた。

 すごくざんねんだ。

 おねえちゃんと決勝をいっしょにのぼりたかった。


《■月△〇日―晴れ》

 どうして?

 おねえちゃんがいっしょにジムに行かなくなった。

 ジムに行くと知らない女の人。野村さんというらしい。

 その人が、今度からあたしにボルダリングを教えてくれると言った。

 でも、そんな事よりおねえちゃんどうしたんだろう。


《■月△×日―晴れ》

 ボルダリングが、つまらなくなってきて……すごくいやだ。

 あんなに楽しくて、体が自然にボルダリングを求めてたのに。

 おねえちゃんがいない。

 おねえちゃん、やめちゃうのかな。

 だったら、あたしもやめようかな。


《■月×〇日―晴れ》

 今日帰る時。

 学校のてつぼうで、トレーニングしてるおねえちゃんを見た。

 てつぼうの後は、日がくれるまで走ってた。

 誰にも見えない様な場所で。

 隠れるように。

 ――そっか。

 そっか、おねえちゃん。

 きてくれるんだね。

 あたし、まってるね。ずっとまってるからね。

 いっしょにのぼろう。

 はじめて優勝したコンペの景色を。

 おねえちゃんにも見てほしいんだ。

 そしたら、あたしたちきっと……

 きっと、もっともっともっとクライミングが好きになるよ。


《〇月▽日―晴れ》

 中学生になって色んな大人の人が家に来た。

 学校も特別に私だけのボルダリング部を創ってくれるって、家に校長先生がと教頭先生が来て。

 まだ、中学生になったばかりなのに、高校のスカウトって人も来た。

 なんだか、少し怖い。

 皆が頑張れ頑張れって。

 クライミングで失敗すると、今度はこの靴を。このチョークを。このトレーニング器具を。って落ち込む間もなく、人が集まってくる。

 正直、この時は参ったかな。

 すると、お姉ちゃんが傍に付いてくれるようになった。

 パパもママも「お姉ちゃんが傍に居てくれたら安心だ」って。

 すごく、嬉しい。


《×月〇日―晴れ》

 お姉ちゃんとアタシ以外で初めて部員が入った。アタシ達の後輩だよ。

 前の日にいい所みせようとして、校舎を登ってお姉ちゃんに叱られて。

 絶対無理だと思ってたけど、はなちゃんはとってもいい子だ。

 お姉ちゃんとはなちゃんを見ていると。

 なんだか、思い出す。

 昔の、2人でただ何も考えずにボルダリングをしていた事を……。



 そこまで、読んで一花は、静かに日記帳を閉じた。

 いつの間にか、陽が落ちかけて部屋の中が薄暗くなっている。


 もう一度、妹の部屋に行くとまるで子どもの様な寝顔で母親が妹のベッドに寄り掛かり、眠っていた。

 もう少し、その夢の世界に母親を置いておいてあげたかったが……。


「お母さん起きて」

 一花に肩を揺すられて母親は寝ぼけまなこで一花に振り向く。

「継葉‼ 」

 目が合った瞬間、母親がその身体を抱き締める。まるで、もう手放さない様に。


「ごめんね、お母さん。私は一花だよ」

 とても――とても残酷な言葉だ。母親にとっても――自分にとっても。


 ゆっくりと顔を離すと、母親は「ごめんなさい……」と見た事も無い顔で、何度も何度も一花に謝った。

「いいよ、お母さん。もう遅くなったから、掃除は明日しよう。

 それとね?

 私……お腹が空いたの。

 お母さんのご飯……食べたい」




 そして、翌日。妹の部屋の掃除が片付いた時。

「お母さん、私ちょっと谷寺先生の所に行ってくるね」

 と、一花は真直ぐに力強く、そう言ったのだ。


 継葉が残した日記帳。

 それの最後の頁はこう〆られていた。



 ――これからも、毎日。

   アタシとお姉ちゃんが、楽しくクライミングできますように――

 PS・はなちゃんも。

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