第21話 お腹
「――はい、私の方から……その事は協会には、伝えておきます」
「申し訳ありません。でも、娘……継葉をゆっくりと葬送りだしてあげたくて……何より……私達家族が……」
母親が今にも泣き出しそうにそう口にする。
――日本を代表するスポーツクライミング選手、凪海継葉の葬儀はその知名度と裏腹に家族葬としてひっそり執り行われる事となった。
「よかった……協会の人を呼んだら、ユニフォームを着る事になるだろうし。
嫌がるよね。ツグ……ふふ。こんなお腹、妊婦さんみたいだよーーって……」
継葉の腹部は、事故の衝撃で臓器の損傷を負っており以前の様に彫刻の様な締まった腹筋は見る影もない程にうっ血でぶよぶよに膨れている。確かに、少し見ただけなら肥満腹の様に見えない事はない。
身体一面に敷き詰められた花の中で、顔を出す妹に一花はそう囁く。
そして――別れの口づけを、初めて自分から妹にする。
逝く妹が――寂しくない様に。
固い――それはまるで、子どもの頃に1度だけ妹の真似をし口に運んだ指人形みたいだと思って、泣きそうになる。
それが、一花にとって妹との別れという現実だった。
それから何日が
その全てが、夢の様に思う程――一花は食事も摂らずに、ただただ眠り――目が覚めた時、妹を思い出して泣いた。
それを3回程繰り返した時、部屋の戸が開く。
「一花、お粥――作ったよ。なにか、食べないと。お腹、空いたでしょう?
それで、これ食べたら……お母さんと一緒に、ツグの部屋を片付けるのを手伝ってくれる? 」
母親の声に、ベッドから起き上がると足元がふらついた。思っていたよりもずっと自分は眠っていたらしい。
小さな丸いテーブルの傍に座り込むと、母親が隣に座り粥を口に運んでくれる。
「ツグの部屋……片付けちゃうの? 」
それを聞いて母親が蓮華を粥の中にひたした。
「ううん完全に部屋を空けるって意味じゃないのよ、ただあの子ったら日頃から整理整頓してなかったし、スポクラ協会さんがあの子のお別れ会を開いて下さるから、その時の写真を貸してほしいと言われてるからそのついでにね……」
それを聞いて安心した様に、一花は蓮華に一口粥を乗せた。
「よかった……部屋が無くなってたら……もしあの子が戻って来た時にきっと悲しむもの……」
それを聞いて母親がぴくんと肩を揺らし――そしてふーふーと粥に息を吹きかけるその少女を、とても悲しそうに見つめる。
「汚……」
継葉の部屋は、事故以降から家族の誰も足を踏み入れていなかった。
そこに、彼女が居ない――という現実を見たくなかったのだろうか?
部屋に入って、少し2人はその場に立ち尽くす。
部屋に残るその香りに、瞼の裏が熱を帯び、動けないのだ。
「さっ‼
さっさとやっちゃおう‼ 」
母親が、そう言うとせかせかと焦らせる様に動く。
動かないと、動けなくなってしまうと痛感したのだろう。
足元に、何故か落ちているテスト用紙や、学校のプリントを拾うと一花はそこに書いてある字を眺めて瞳を潤ませる。
「一花、こっちきてごらん」
母親の声に我に返ると、プリントを持った手の甲で、一花は乱暴に目を擦る。
「なぁに? お母さん」
ごっちゃごっちゃに教科書を乗せた勉強机のところに母が居た。
「これ、ツグの日記だ」
母親は、可愛らしいノートの表紙をペランと立てて一花に見せてそう言った。
「日記? 」一花は驚いた。自分の知る妹は日記をつける様なマメな面を持ってない少女だったからだ。
マジマジとそれを見つめる一花を見つめると、母親は穏やかな笑みを浮かべ。
「一花が持ってな」
と言って、それを彼女に手渡した。
「え? 」受け取った後、一花は母親の顔を見る。
「お母さんと、お父さんは少し後で見せてもらうね」
それは、継葉の事を受け入れれた後で――という意味だろう。
「でも、あの子勝手に読むと怒るかも」
母親は首を横に振るう。その表情は変わらず穏やかだ。
「お姉ちゃんなら、きっとツグも怒らないんじゃない? 」
それを聞くと「そうかな? 」と言って一花はその日記をとても大切そうに抱き締めた。
「部屋に置いてくるね? 」
「うん、なんだったら、部屋で少し読んでおいで。お母さん写真探しとかやっとくから」母親の返事を聞いて、一花は部屋を後にする。
その背中を見つめ、一人になった母親はその部屋を改めて見渡して――声を殺して肩を震わせた。
部屋に戻った一花は、勉強机の椅子に腰かけてその日記帳の頁を早速捲る。
「うわ、汚い字」
レイアウトもくそも無い。
最初の頁から、びっしりと字が敷き詰められ、しかもどうやら行間も空けずに次の日付を記している様だ。
「
一旦それを閉じると母親の元へ戻る事にする。
「おか……」
開きぱなしの部屋から、中の母親に声を掛けようとしてその声は止まった。
「ツグ……継葉……」
母親が妹の布団を抱き締め、声にならない声で妹の名を呼んでいる。
それを見て、一花は足音を立てない様その場から離れ自分の部屋に戻った。
勉強机の日記帳を再度手に取ると、一花はその文字をジッと眺めて一文字ずつ読んでいく事にする。
どうやら、始まりは随分昔の様だ。
ほとんどが平仮名書き。小学生のそれも低学年に近い頃だろうか?
そう思い、読んでいる中で――気付いた。
――日記の始まり……ボルダリングって書いてある……?
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