第六章 始動【リ・スタート】
第20話 後悔
それは、継葉の事故から数日後の話。
来道市の海道近くの神社――近所の住人達からは「ろくまんさん」と愛称で呼ばれる随分歴史のあるその神社で。
神に参るでもなく、その少女は1人の女性に向き合っていた。
「……こんな場所にどうした? 一花。
参拝なら、向こうの境内の方へ行ってくれ? 」
元々化粧っ気がない人だったが、その日は明らかに眼の下のクマと頬が欠けている顔が目立つ。
「谷寺先生……私に……クライミングを……教えて下さい‼ 」
まるで、思春期の子どもが愛の告白をするように、一花は力強くそう叫んだ。
それを受けた谷寺はまず、驚いた様に目を丸くして、やがて「あ~~……」と返事を引き延ばす様に、声を伸ばしカシカシに乾いた髪を掻いた。
「だったら――ジムに行けぇ……上羅も国内のコンペで入賞する実力者だ。私なんかよりよっぽど上手く……」
「
元ロッククライミングフランスチャンピオンで、国際ルートセッターも務めた貴女に」
谷寺の眉が僅かに動いた。
「知らんな、誰の事だ? それは? 」
その言葉の途中で一花は、鞄から一枚の紙を取り出した。
「勝手に住民票を見せて頂きました。
貴女は、18年前に15歳の若さでまだ日本では浸透していなかったクライミングを学びに世界各地に赴き、そして当時の世界最高峰であるフランスで初のアジア人女性チャンピオンとなった。まだネットが普及していない時代。そして、違う苗字だったし、名前の呼びも違う。まさかこの人が谷寺先生と同一人物とは思ってはいませんでした。
でも、おかげで納得しました。
先生が転任して直ぐにボルダリング部の顧問になったのか……」
谷寺は、静かに一花の眼を見る。
「先生は、継葉の為に学校に派遣されたんですね?
スポクラ協会か……それとも、学校から」
谷寺は無表情のまま、その言葉を受け止めた。
口を一度開きかけ――そしてそのまま大きく息を吸うと呟く。
「そこまで解っているなら――。
もう、解るだろう?
苗字の変更は、父親との死別でね……この為にわざわざ隠した訳じゃない。
そして継葉が居なくなった今、私の役目はもうない。
多分学校を速やかに離れる事になるよ。それに伴い、継葉の事故のイメージを払拭する為に学校はボルダリング部の痕跡を綺麗に消すだろう。
一花、お前に――教える時間がそもそももうないんだ」
その言葉が出た瞬間だった。
谷寺が、珍しく慌てる様に首を振って周囲に人影がない事を確認する。
そして、足元にひれ伏す一花を睨み、その腕を無理やり引き上げた。
「止せ! 子どもが、わかった風に土下座などして、頼み込むな」
そして、鼻がぶつかりそうな程、2人の顔は接近する。
「お願いします。先生。
12月の日本大会で予選を勝ち抜くには、貴女の教えが必要なんです」
それを聞いて、谷寺は遂に乱心した様な一花の行動の原因を理解した。
「日本大会を勝ち抜いてどうする?
継葉への手向けにでもする気か?
そんな事をしても無駄だという事は、一花。お前も解るだろう?
継葉が戻るわけじゃないんだ。
そもそも、いや……ハッキリ言おう。
一花、お前の実力ではどうやっても不可能なんだ。
……勘違いをするな。
それは
そこまで言うと、谷寺は一花の手を引いて家の中に入る。また土下座などされて参拝客にでも視られたら事が大きくなる。
「一花。お前はガッツもあるし、積み重ねる努力の大切さを知っている。
それは才能だ。
きっと、その努力を続けていけば自然にお前は日本大会でも名を残すクライマーになるよ。
だからな?
焦るな。じっくりと時間をかけてお前自身を完成させていけ。
そうすれば、私の力など借りる必要もないよ。お前は自分の力で高みに行ける」
とても、穏やかで――まるで語り掛ける様に谷寺は言った。しかし一花はその言葉を聞き終えると首を横に振るう。
「それでは駄目なんです」
「何故だ! 何故、そんなに急がねばならん!
一時の感情に突き動かされるな‼
お前は、生きているんだ。これから先たくさんの出来事が待っている。好きな奴も出来れば楽しい事も、辛い事もたくさん……‼
いいか? 人生とクライミングを同じ価値で
クライミングがあって、お前の人生があるんじゃない……
お前の人生が在って――クライミングがあるんだ‼
何度も、言うぞ! お前が自分を犠牲にそんな事をしたとて、継葉が喜ぶわけ……」
「自分の為です! 」
谷寺が言葉を止め、その真意を問う様に視線を向けた。
「継葉の想い。それも――無いと言えばウソです。
でも、それ以上に。
私がこれからもクライミングをしていく為にも。
今、今――自分が出来る最大限の事をしないと。
私はこれから、ずっとクライミングをする度――後悔してしまう気がするんです」
腕を組み、ジッと言葉を聞く谷寺が尋ねた。
「それは――負けても……と、言う事か? 」
一花は奥歯を噛みしめて、今一度視線をぶつけた。
「だったら、初めから貴女に教えを請いません
やるからには――継葉を……野村さんを――」
「超えたい――! 」
それで、全てだった。
一花が持つ心の中の全て。正しくそれを全て、谷寺は受け止めた。そして、同時に理解した。一花が本気であるという事。
それを受ける事が正解だったのか間違いだったのか。きっと後に谷寺は知る事だろう。
だから、彼女も
自分が後悔のない方を。
「こっちだ、華」
学校から車で十数分の場所。長い階段を登った先には、神社があった。
「私の母方の実家だ」
突然、その様な場所に連れてこられた華はもっと尋ねたい事があったが、谷寺はまるで急かす様に足を進め、油断していると置いて行かれそうだ。
必死で後を追うと、神社では一般では入る事は禁じられている境内の中へ谷寺は入っていく。
少し躊躇したが、意を決すると華も靴を持って中へ入る。
畳に敷き詰められたそこは、中に入ると特に広く感じた。
祖父母の家にある仏壇とは比べ物にならない大きなそれを見ていると、離れた場所で遂に谷寺が足を止めていた。
そして「ここだ」と戸を開いて華を招く。
「ここは……? 」
入った瞬間、異質な感じを受ける。
「昔、ここの住職がクライミング馬鹿の孫娘への誕生日にな。
罰当たりな事に境内の裏の空間を利用して、高さ5メートルの公式戦と同様のステージを創り上げてしまった。
ご丁寧に、角度まで多種多様に。
やがて、その孫娘は……いや、長くなる。この話はまたにしよう」
そう、異質でしかない。
神社の境内の裏側に――ボルダリングの設備があるなど。
そして、そこを一心不乱に登っている人物に気付いた。
「一花先輩⁉ 」
背の戸を閉めると、谷寺は腕を組み――華の隣へ向かう。
「すまないな。もう学校で練習は出来ないだろうが。お前さえよければいくらでも好きな時にここを使ってくれ。そして、お前の都合が合う時だけでいい。
一花を見ていてやってくれないか?
あの子は、今危うい」
華がその言葉に過敏に反応する。その反応が落ち着く様に、顔の前に右手を突き出す。
「命がどうこうという意味じゃない。
お前なら理解るだろう? 継葉がああなって……一花が何故あの様な行動を起こしているのか。勿論、無理をし出したなら私があいつを止めるから。
たった数ヶ月だけど、お前はあの2人とその間ずっと共に居たものな。
いや……それだけではない」
谷寺が両手で華の肩を掴むと、目線を合わせて顔を近づける。
「お前は、スポーツクライミングの真なる意味を知っている」
華は文字通り顔を引きつらせて首を横に振る。
「わたしが……? 」
谷寺は力強く頷く。
「ああ。そうだ、華。
だからこそ、お前なら見える筈なんだ――一花が忘れているそれを」
華は、ただただ眉を顰める。
「いいんだ。今は解らなくていい。
お前は、ただ今までの様に……」
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