第18話 錠

 その連絡を華が受けたのは、家に帰ってほとんど直後だったと思う。

 台風の様に着替えだけ済ますと只ならぬ表情の彼女に、彼女の母親は理由を尋ねた。

 まともに説明できたかも定かではない程、彼女は混乱していた。


 連絡に受けた場所に自転車で向かおうとした彼女を止めると、母親はタクシーを呼んだ。

 そして、必ず帰る時に携帯で連絡を入れる事を約束すると、彼女に千円札を握らせて見送った。


 華は、タクシーを飛び降りるとその建物の中に駆け入る。

「すいません。事故でこちらに運ばれた凪海さんの病室はどちらでしょうか? 」

 華はそう言ったつもりであった。

 だが、実際はそんな言葉はその口から出てはいない。


 受付の女性は、華の顔を見るとまるで哀れむかのように眉を顰めて、隣の同僚の女性と顔を見合わせた。

 そして、ファイルを捲りどこかへ内線で連絡を繋げると。


「ご案内します」

 と、そこから出て華に手を差し出す。


 1階のエレベーターは、基本上の階を示すボタンしか付いていない。それは外来受診に訪れた患者が誤って押してしまう事への予防でもある。


 だから、普通病院の地下へ降りる事は関係者以外ではあまりない。


 階段で一歩一歩そこを降りる度に――華は、自分が居た現実の世界から離れていく感覚を覚えた。

 一階層分なのに、ひどく永く感じた階段を降りると、意外に想像したよりもどこか見た事がある様な場所だった。

 やがて、それが古い方の校舎だと思いだした時、案内された長い廊下の先に、見覚えのある大人の女性が居た。


「……華」その女性もこちらに気付いたらしい。その人が自分の名を呼ぶと彼女と会話をしていた大人の男性と女性もこちらに向き直る。

 それを確認すると、案内してくれた受付の女性はこちらに頭を下げて静かに地上へと戻っていった。


「貴女が……はなちゃんね? 」

 谷寺と一緒に居た女性がそう言うと、腰を曲げて視線を華と合わせ、穏やかに続けた。

「いつも、聞いていたわ。一花と……継……葉から……」

 言葉の間が、不自然に途切れるのは偶然ではない。


「ありがとうね? わざわざ来てくれて……きっとあの子、喜ぶわ。はなちゃんとちゃんとお別れが出来るって」

 震える声でそう言うと、その女性は視線で先の扉を示した。


「会いに行ってあげてくれる? 一花もきっと貴女を待ってる」

 その言葉を無言で受け取ると、力ない足を引っ張って華は扉へ向かう。


「すみません……私が、あの時にきちんと娘さんをお送りしていれば……こんな……こんな事には……全て私の責任です……申し訳ありません……」

 背中越しに谷寺の聞いた事も無い神妙な声が聴こえる。


 華は、耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。

 それに耐えれたのは、きっとこの時、この土壇場でも。

 華は、どこかで思っていたのだ。

 これは、何かの悪い冗談だって。

 この無機質なアルミの様な扉を開けると――きっと2人が笑って自分を迎えてくれるのだ。そしたらいっぱい話そう。ボルダリングの事も――くだらない話も、いつもの様に。そう、いつもの様に。


 扉を開けた華の周りを、線香の香りと夏とは思えない様な冷気が一気に包み込んだ。


 薄暗いその部屋は、蝋燭の明かりと控えめな足元の間接照明で照らされて。


「華……」

 部屋の中心にある台の様な所に横たわる人影。その傍らに立っていた一花の表情は部屋の暗さもあって、酷く悪い。


「ありがとう、ごめんなさい。急に呼んで……」

 弱弱しく囁かれるその言葉に、華はただただ、首を横に振るった。

 そして、まるで足が浮く様な感覚の中、そこへ近づいた。


「顔……傷つかなかったんだって。よかった。

 だって、ツグも女の子だもんね……」後ろで一花の震える声が聴こえるが、華にその内容は全く入ってこない。

 ただ、そこに横たわる……少女が……。

「継葉先輩、鼻……」華の呟きを一花は聴く。

「苦しそう……」

 彼女の鼻腔をしっかりと塞ぐその綿を見て――自然にあふれた言葉だった。


「小さな子どもの兄妹がね? 車に当たりそうだったんだって。

 この子、ほら。思い立つと止まらないでしょ?

 子どもを助けようと間に割って入ったんだって。本当バカだよね。でもね?

 でもね? 華」

 声にどんどんと、涙が混じる。


「おかげで子ども、2人ともかすり傷で済んだんだって。

 すごいよね?

 バカだけど。

 すごいよね? 継葉は――」


 彼女に振り返った華の顔はとても悲しそうに顰め涙を流していた。


「どうしよう?

 どうしよう華……。

 死んじゃった。

 継葉……

 死んじゃったよ……」


 その言葉がきっと最後の錠だった。


 言葉にならない言葉は悲痛な嗚咽となり、悲鳴にもなれない悲鳴はまるですがる様な懇願。

 2人は抱き合うと、両膝を地に付き泣き崩れた。


 その現実を否定しようと、涙で濡れた顔を何度も横に振り。

 跳んだ一粒の涙が。

 継葉の瞼に当たり――こめかみを伝った。

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