第五章 継葉【いもうと】
第17話 しゃぼん玉
しゃぼん玉という童謡がある。
大正時代に創られたこの歌は、今もなお園児や幼児達によって歌い続けられている。
それは、時代が流れ移ろうともしゃぼん玉で無邪気に遊ぶ子ども達が変わらずに居続けてくれる事が最大の要因であると思われる。
しかし、そこにはもう一つ大きな思いが込められていると言われている。
それは――。
ミンミンゼミの鳴き声がこの頃特に大きくなった気がする。
まぁ、それは周囲を林に囲まれたこの学校では当然なのかと、華は汗が滴る顔を挙げて思った。
日陰に入ってはいるが、何もしなくても汗が噴き出す暑さだ。
「大丈夫? 華、しんどくなったら水分補給して休んでて? 」
そう声を掛けてくれる一花も体操着から下着が透けるほど濡れている。見ると脱水症状が心配になる量だが、それは汗だけではない。
華と一花が中腰で向かうのは、現年号も変わろうとしているのに、旧年代で使用された様な金タライだ。そこに並々と注がれた泡洗剤が、中のシーツを擦る度に、服に跳ねる。それが繰り返されれば、こうなるのは必然か。
「いえ、大丈夫です。それよりも、折角貸してくれた野球部さんに早くお返ししないと迷惑が掛かってしまいます」
そう言うと、華は勢い良く腕を動かす。するとジャブジャブと水の跳ねる音と共に現れたしゃぼん玉が2人の空間を包んだ。
「はは、綺麗だね。華」
だが、そのしゃぼん玉は市販の物とは違い、とても脆く直ぐにパチパチと弾けて消える。洗剤の濃度の関係だろうか。
「よしっ、あとはこれを陰干ししておけば完璧だ」
一花の言葉で、2人は地に落ちないように端を持って、ゆっくりと広げる。
それは、いつも自分達が使用している衝撃吸収マットのラバーカバーだ。
丁度、明日から盆期間に入る為学校は閉鎖となる。
その前に、道具を清掃しないかと提案したのは一花だった。
いつも、使用している道具を大切にする事を大事にする一花らしい提案だと華は思った。
数日、干しっぱなしになる為しっかりと洗濯ばさみで数か所留める。
「物干し竿が足りません……」
華が困った様に囁く。
「う~ん、これは無理だね。華、仕方ないよ。幸い暫らく干しておけるから重ねちゃおう……生乾きみたいに臭くなるかな? 」それは嫌だなと、2人は笑う。
その後、野球部にタライを返しに行くと。
「え~~。もうやっちゃったの~? うち、洗濯機あるから、別にいつでも返してもらってよかったのに~」とマネージャーの女子に驚かれた。
「あはは、でも今日くらいしか出来る時もなかったし、よかったですよね」
部室への帰り道で、華が笑いながら話す。
「ああ、華のお蔭で早く済んだんだよ。ありがとう……」
だが、その言葉はどこか浮足立っている。そして、華には既にその原因が
「継葉先輩、今日帰ってこられるんですよね? 」
華は、心から嬉しそうにそう言った。
「へ? う、うん、そうだっけ? 」
それで、一花は誤魔化しているつもりなのだろうか。
目はキョロキョロと泳いでいるし、同じ手と足が前に出始めている。
「1週間、寂しかったですね」
華が白々しくも意地悪に追撃す。
「ど、どこが?? むしろ、煩いのが居なくてせいせいしたよー。
どうせ、今も私の悪口でも、言って……はくちっ! 」
口元に手を当てたまま「ほらぁ」と、一花は言うが。
「いやいや、先輩。それはきっと身体が濡れて冷えちゃったんですよ。早く着替えて帰ってお風呂に入りましょう? 」
と、華が冷静に返答するもんだから、一花は「やっぱり華、最近意地悪な所が継葉に似てきたよ」と唇を尖らせた。
その時だった。
「あ、しゃぼん玉」
華の言葉に「え? 」と一花が見上げると、ふわりふわりと1球のしゃぼん玉が廊下の天井に向かって窓の光を受けながら浮遊している。
「さっきのくしゃみの時ですね。手に洗剤が残ってたのかも」
華が、そんな事を言う。と、やがて高くまで上がったしゃぼん玉は呆気ない程に、ぱちんと儚く弾けた。
「そう言えば――一花先輩、しゃぼん玉の歌の意味ってご存知ですか? 」
華が突然思い出した様にそう言った。
一花は「あの、しゃぼん玉とんだの歌? 」と首を捻って尋ねる。
「はい、あの歌って作詞家の人が自分の子どもを早くに亡くした事を、しゃぼん玉に重ねて書かれたそうですよ」
一花は、小さく微笑んだ。
「
「ご存知でしたか? 」その問いに一花は、微笑んだまま一度頷いた。
「でも」
一花は、小さく息を吐くと弾けたしゃぼん玉を看取る様に、天井に視線を向けた。
「人の命がしゃぼん玉の様に儚いなんて、寂し過ぎて私は嫌だよ」
「先輩……へくしょん! 」
ずずーっと鼻を啜る華を見て、一花はハンカチを差し出した。
「帰ろっか」
穏やかな笑顔に、華は頷く。
そう、人は知らぬ間に日常を当たり前の様に捉えている。
華も、一花も。明日が来ない事など、生活をしている時には微塵も想像していない。
だから、日々が過ぎればまた3人の日常が戻ると。
結論だけここに記す。
3人の日常が戻る事は――もう二度となかった。
「本当に、ここでいいのか? 家の前まで送った方が楽だろ? 合宿の疲労は幾らお前でも並みじゃない筈だぞ? 」谷寺が提案するが、継葉は「いいのいいの、華ちゃんとお姉ちゃんの顔が早く見たいもん」と、車が停車すると、即座に外に飛び出す。
「おい~、ちゃんと周りに気をつけてから降りろ~、危ないだろ~」
飛び跳ねていた継葉が、ピタッと止まって、運転席の窓に顔を近づける。
「そっだ! ねえ、めいちゃん。ガッコまで送ってってよ」
その言葉を聴いて、ものすごい分かりやすく谷寺は嫌な貌を見せた。
「ダメ? 」
「じょ~だんじゃないぞ~ツグ~
わたしはきょ~までおまえの保護者観察係って事で同伴なのに、まだ昼過ぎで、学校なんかに行ってみろ~、溜まりに溜まった仕事をしなきゃならんよ~になるだろが~、冗談じゃないぞ~、わたしはお家に帰って寝るんだ~」
その言葉を聴いて、流石の継葉も軽蔑の視線を浮かべて「あっそ……」と、窓から離れる。
その様子を確認すると「サラダバー」と捨て台詞を吐き、谷寺は去っていった。
「アタシも、将来先生になろうかな……」
車が、遠く見えなくなると長時間座っていた筋肉を伸ばす為に大きく伸びをすると、学校へ向けて歩を進める。
盆を迎えようとする時期に違わぬ、地を焼く様な日差しだ。
露出していた首と、腕がピリピリと火傷の様な痛みを走らせる。
しかし、ようやっと地元に戻ってこれた事と、合宿中に得た達成感。それの報告をしたいという欲求によってそれは認識の外へと追いやられる。
「あっ」
着信を確認しようと取り出したスマホを、手から滑らせてしまった。
勢いよく、地面を滑るとそれは、道を外れた草場でようやっと止まった。
「ぎゃっ、最悪~画面割れてるじゃん……」
走って拾い上げると、綺麗に画面に亀裂が入っている。タッチパネルに反応はあるので渋々とその傷を眺めていた時だった。
「待ってよ、おにいちゃ~ん」
「レイナ、はやくはやく。ぶちでっかぁクワガタが居るって、たかひろくんが言いよったんよ。いそげや」
視線を声の方向へ見ると、トンネルの中から小さな子ども特有の小刻みな足音が壁に反響して煩い程鳴っている。
話の内容から、男の子と女の子は兄妹らしい。まぁ、そんなに急ぐと転ぶよ。と老婆心を抱きながら自分の幼い時を思い出し、継葉はとても穏やかな表情で2人を見ていた。だから、それに気付いた時。
その背がゾッとする感触に継葉は恐怖した。
「このトンネルは、ミラーもなくて見通しが悪くて危険なんだから」
以前姉に言われた言葉が何度も頭の中を反響する。
偶然――それは偶然、道を外れたその場に居た一花だから。その2つが見えた。
トンネルを抜けようと駆け走る、2人の子ども。
そして、その反対側からスピードを出し滑走する乗用車。
最悪なのが、その車が最新型で音も小さく、また子ども達が話をしながら走っている為気付く可能性が難しい事。
――子ども達に叫んで止めるか?
一瞬で頭を過ったが、子ども側だけが停止しても恐らく接触を避けるのは難しい。それ程までにもう2つは接近している。
運転手に何らかのサインを出す?
ここから見える限りでは、運転手は老人の様だ。継葉の姿は確認しているだろうが、目線はもう角に移っている。
そこで、一瞬という長い思考の上で継葉は非情の結論に至った。
両者が、停止しなければ――もう、接触は避けられない。
あの男の子と女の子が車と接触した場合。
助かる可能性はあるだろうか?
分からない――だが、無傷で済む可能性はどう見ても考えられない。
では助けれるとすれば、一体どんな方法があるのだろうか?
瞬きの瞬間――瞼の裏に姉の姿が見えた。
そして次の刹那、彼女はそこから飛び出していた。
その行動は、起こそうとして起こしたものではない。
考えるよりも、身体が動いたのだ。
そしてそれは恐らく、彼女だから出来た事でもある。
トンネルの壁に、大きな衝突音と――物が擦れる音が不協和音を奏でて反響する。
――ああ……。
継葉は、滲む瞳で真っ暗なトンネルの天井を眺めながら起き上がろうとするが、どうにも力が入らない。身体全体が痺れた様に動かないのに、砂風呂に入っている様に嫌に温かなぬくもりがある。
――失敗しちゃったなぁ……
力いっぱい押し飛ばしたあの子ども達は、怪我をしなかっただろうか?
確認したいのに、身体が全く動かないしどんどんと、息も苦しくなる。
――あぁこれ、また……お姉ちゃんに……怒られちゃう……
その瞳に涙が溢れ、零れ落ちる。
――嫌だ……会いたい……今、会いたいよ。
しゃぼん玉、飛んだ。屋根まで、飛んだ。
屋根、まで飛んで。
壊れ、て消えた――。
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