第16話 実力
チョークバッグを腰に巻き、愛用の真っ白いシューズの紐をきつく締めると、咥えていたゴムで、素早く髪を後ろにまとめる。
そして、向き合う壁を見上げるとジッと真剣な眼差しでそれを見る。
「しっかり後の俺の為にせめて、4手くらいまでは頼むよ。おねーちゃんっ」
後ろで、ニヤニヤと軽口をたたく阪木をジッと華が睨むが。
当の一花は、全くその言葉を聴いていない。
事前に時間を消費するオブザベーションが存在する事には明確に意味が在る。それは、少し考えればわかる事だ。掌程の石を不安定に掴み、足を掛ける行為。それから行動を考えていては時間の浪費に伴い、疲労によって失敗するのは必然である。
あるクライマーが言っていた事がある。
オブザベーションは課題を読み取るといった意味で詰め将棋やチェスの様な頭脳ゲームに近しく見られるが。
それよりも近いのは図面を見て立体物を想像する空間把握。決まった型を探す正解が決まっている詰め将棋やチェスよりは。
自分の能力に合った解答を探す――創作に似ていると。
今、その課題を見つめる一花の脳内では幾百と完登に失敗する自分が見えている。まるで防犯のモニター室の様に、何分割もされたその画面で。
そして――行き着くのだ。
一花が頬を両手で「ピシャ」と叩くと、上羅が「始まるぞ」と固唾を飲んだ。それに合わせて華の握り拳にも力が入る。
初手は普通にスタートホールドを掴む。
――と、そこからがまるで完成された武道の型の様だった。
手足だけでなく、身体の関節と体幹を利用した連続技。見る見る内に運動の法則に乗っ取り、一花の身体は加速を繰り返した。
「え……姉ちゃんの方は、大した事ないんじゃ……」阪木がその光景を目を点にして見つめる。
「すごい……これが、一花先輩」
華には一花が使う技術のそれの理解が全く追いついていない。
「そうか、4手目でキョンを使えば彼女のリーチでもあそこに引き手が届くのか……」上羅がそう感心した様に行った時だった。
ジムに居た利用者達がその空気を感じ取り、集まりだす。
課題は早くも佳境。
もうゴールまで手を伸ばしてしまえば届きそうなその位置で。
「え⁉ 」
華が驚いたのは、先まで加速していた一花が動きを止め、まるでテレビで見たナマケモノの様にぶらんと左手を落とす奇妙な行動を起こしたからだ。
「
一花ちゃんは、今残った力を次のムーブの為に集めているんだ。
さあ、この位置なら継葉ちゃんならきっと跳躍で狙うだろうけど……」
華への説明はそこで区切られる。
一花が選択したその手は。
「足場を取りに来た‼
なんて、丁寧で……堅実なムーブだ‼ これだけの長丁場を……」
そして、じりじりと身をよじる様に、一花は遂に終着点をその瞳に捉え……最後の一手が伸びる。
「先輩、ガンバーーーー‼ 」
隣に居た上羅は一瞬驚いたが、やがて「ガンバ‼ 」と華の声援に続いた。そして――それを皮切りに。
「ガンバ」
「ガンバー‼ 」と、集まり観客と化していた利用者達も声を出す。
それはその光景を見ていた阪木までも。
そして、その瞬間がついに訪れる。
一花の左手がスクエアの印に囲まれたフィニッシュホールドを掴み、しっかりと身体を保持した。
そしてすっかりとあがった息を整える為、顎を引き天井を見つめる。
「登れた……」
自然に口から零れた言葉だった。
イメージでは成功はしていたが、それが上手くいく可能性は決して高いものでない事を彼女は認識していた。だからこそ、まだ達成したという自覚がやってきていない。
彼女が下で待ち望んでいるであろう華に向き直った瞬間。
耳をつんざく程の歓声と、拍手。
思わず、一花は硬直し滑る様に落下した。
地に落ちた彼女に、華は駆けよると。
「先輩、すごいっ」と、見た事も無い満面の笑みで自分を褒め称えるのだ。
「あ……」
その光景が遥か昔の記憶と繋がる。
「うん、ありがとう華――楽しかったよ」
その夜――。
「お姉ちゃん、華ちゃんのライン見たよー。3段課題、一撃したって~」
宿題にペンを走らせながら、スピーカーモードにしたスマホに、一花は返す。
「なぁに? そんな事でわざわざ合宿中に電話したの? 」
一花のその言葉に「ぐっふっふっふ」と厭らしそうな笑い声が返ってくる。
「今日ね? アタシもスピードで遂に晶ちゃんに勝ったんだよ。
3回やって1回だけだけど」
一花は、動揺を隠す様に顔に手を当てるが、すぐにバカバカしい行動だったと思う。相手は電話越しなのだ。
「すごいね」
出来るだけあっさりとした声で返す。
「じゃあ、宿題するから切るよ? 」
「お姉ちゃん、帰ったら宿題見せ」
その懇願は聞き入れられず、着信は途中で切断された。
「あれー? 継葉、どうしたの? 何か嬉しそうじゃん。
あ、わかった。今の、彼氏でしょ? 」
ぶかぶかのシャツに身を包んだ野村が、継葉から少し離れたベッドで腕立て伏せをしながらからかうように言ってきた。
「ううん、恋人よりももっと好きな人だよ」
そんな乙女の顔は、まるで夏の青空の様に清々しい。
「そう言えば、晶ちゃん。ありがとう。
お姉ちゃんに日本大会を勧めてくれて」
そう言いながら、彼女の近くに行くと継葉は腰掛けた。
「お姉ちゃん? 」
野村は、腕だけで上半身を起こしあげ、その勢いのまま継葉の隣に飛び移り、宙で胡坐をかきながら着地する。
「うん……世界大会の時、会ったんでしょ? 」
「世界大会……」
野村は、眉間に皺を寄せ顎に手を当てて必死に思い出そうとしている。
その反応に継葉は臍を曲げた。
「もう‼ 晶ちゃん、お姉ちゃんをそんなにアウトオブ眼中してると、絶対その内痛い目に合うんだからね‼ 」
野村は苦笑いを浮かべながら後頭部を掻くと「ごめんごめん」と軽口を叩くが、継葉はふてくされて自分のベッドに潜り込んでしまった。
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