第6話
春先とは言え真夜中のオルニス寮はまだ若干肌寒い。
制服に薄い上着を羽織ると、音を立てないよう慎重に扉を開く。
廊下をそっと覗くと、月明かり以外に照らす光は無く、人影も皆無だ。
一人も人がいないことを確認すると、抜き足差し足と目的地へと向かう。
二階から一階へと階段を降り、食堂とは逆の方へと歩いていくと、昨日消灯時間まで学生がたむろしていたラウンジを越える。
やがて、目の前にのれん付の両面開きのドアが立ちはだかった。
暗くてよく見えないけどたぶんここで合ってたはずだ。
静かに開いて中へ入ると、ようやく一息つくことができる。
やっと大浴場に到着できたか。こんな時間に部屋を抜け出してる事がばれたらば学院側に何を言われるか、流石に無いとは思うが、退学すら危ぶまれるかもしれないからヒヤヒヤしっぱなしだった。
でもここまで来たらよほど騒がない限り外に音は漏れないのは把握済みだ。そうそう見つかる事は無いはず。明かりは付いてるみたいだから警戒も特にされてないんだろう。
しかしまぁ、まさか部屋の風呂の使い方が分からなくなるとは思いもしなかった。幾つもつまみがあって適当に押してみたら、壁に引っ付いていたゴマ粒みたいに穴の開いた意味の分からない金属から水が出て冷たいし、肝心の風呂も大きめの桶だけあってお湯はおろか水すら張ってないし。
たぶんあの風呂は西洋と弥国における文明の差の原因、
まぁそんな事より、今は兎にも角にも風呂だな風呂。この学院に来るまでまともな水浴びとかでまとまな風呂に入ってなかったから流石に辛い。
服を脱いでいると、自分の姿が映った大鏡に目が行く。
冴えない顔に、極東の国、弥国の人間特有の黒髪。どこまでも黒く底が窺い知れない漆黒。
弥国ではそんな事知りもしなかったが、どうやら西洋では髪を別の色に変えられるらしい。せめて焦げ茶色くらいにしておけば風呂に入るのにこんな苦労しなかっただろう。
夕方あたりに一度行ったら脱衣所に入るだけで物珍しそう、あるいは侮蔑の眼差しを、しかも野郎どもに受けるのはなかなか居心地が悪かった。そのせいでこんな時間に風呂へ来たわけだが。まぁ前提として、そもそも染め方は知らないんだけど。
にしても噂には聞いていたが、弥国人がここまで嫌われてたとはな。まさか弥国人という理由だけで難癖つけられて果てには入学一日目でリンチを受けそうになるとは。
フラミィだけは俺が弥国人でも普通に接してくれたけど、それでも同じ人種がいないのはいささか悲しい。
ま、別に馴れ合いたいかと言われればそうでもないからいいんだけども。
それはいい、さっさと入って寝てしまおう。明日も早くからこの学院についての卒業要件やらの説明があるらしいからな。
どうせ人なんていないだろうから適当に服を脱ぎ散らかし、大浴場への引き戸を開く。
「ぁっ……」
広々とした空間の中、小さいながらも透き通った声が微かに聞こえ、目の前でいるはずのない誰かと目が合う。
冬の空のように澄み渡った瞳だった。
背は俺より頭一つ分、あるいはそれ以上小さく、腰のあたりまで湛えられた髪の毛は濡れているからか、まさに白銀色に輝いて見えた。それに併せて、控えめながら柔らかそうなモノと、白く華奢な肢体が視界に遅れて飛び込んでくる。総じて美少女と呼ばれる部類の西洋人だ。確かフラミィの知り合いの子、だったはずだ。
でもなんでまたこんな時間に? 確かに風呂は時間によって男女入れる時間が決まっていた気がするがこの時間帯は……いやまぁそんな事はともかく、現状だな。うん、まずい色々。
「その、なんというか、まさかこの時間に誰かいるなんて思わなくてだな。これはどうあがいても予想できないというか、まぁ、事故なわけで……」
しどろもどろに言葉を吐き出すと、目の前にいる女の子も状況を把握したのか、次第にその頬が紅く染まっていく。
「いつまで、見てるの……?」
「あっ、おう、そうだよな。ごめん」
控えめで物静かな声が、しかしはっきりと耳をつんざいた気がしたので、すぐさま扉を閉める。
即座に着替えると、本来なら脱衣時に入れるための籠に、女の子用の制服と薄水色のシュシュが入っているのを見つけた。何て事だ……この西洋の髪留め、に極めて似たような物に気付いていればこんな事には。一生の不覚。
もはやなりふり構わず脱衣所を出ると、自分の部屋へと一目散に逃げ帰った。
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