8/5(土) ごめん、さよなら

 いろいろな恨みを込めて天井を睨みつける。

 水月を泣かせたり、辛く当たったり、思ってもないようなことを言ったり、気分は最悪だ。

 ……しかし主に俺のせいなので誰に当たることも出来ない。


「快斗兄、もう九時だよ」


 軽いノックとともに実子みこの声がドアの向こうから飛んでくる。

 実子は昨日会ったことを何も知らないはずだ。いや、実子だけじゃなく誰もだろう。

 何も身構えることなく話せるのは、今はとても嬉しい。


「水月姉とのこと、ちゃんと話して」

「えっ」


 なぜ実子がそのことを知っている……。

 特にお前は、あの時家にも居なかったじゃないか?


「その様子だとわかってなかったみたいだね。わたしも十四歳だよ? もう立派な女の子だよ?」

「ハイ、そうですね……」

「昨日、水月姉のこと泣かせたでしょ? 謝ってきて」

「ハイ……」


 起きかけていた全身の力が抜ける。頭が重力に従って枕に突っ込む。

 全部お見通しってわけですね、実子様。そうですよね、女の子ですもんね……。

 お兄ちゃんは寂しいよ……。


「だから、起きて。入るよ」


 返事をする前にドアが開かれる。

 実子は何も言わずに俺の布団を剥ぎ取って床に捨て、カーテンを開けていく。


「ほんと、お前は良い嫁さんになるよ……」

「寝ぼけてないで起きる」


 左腕が引っ張られベッドの上をゆっくり引きずられる。徐々にベッドの淵が近づいてくる。


「このままだと落ちるよ?」

「はい、起きます」


 大人しく、起き上がって立ち上がり、大きく伸びをする。

 まだちょっと腕が痛いが気にするほどじゃない。

 床から実子の投げた布団を拾ってベッドの上に直しておく。


「早く用意して、水月姉のとこ行く」

「はい……」


 それだけ言うと、実子は部屋を出て階段を下りていった。

 正直言うと気乗りがしない。水月とは話せるとは思えないし、俺が話すことがないのだ。

 だって、昨日、あれだけのことを言ったのだ。それなのに俺を許してくれるとは思えない。

 それに水月だってわかっているはずだ。


 もう、この関係をどうにかできる時間が残っていないことを。




 ~ ~ ~ ~ ~




 着替えが終わり、朝ごはんも食べ終わり、さて本当に水月のところへ行くか迷っていると――


「えいっ」


 ――実子がいきなり腹パンをしてきた。

 ……痛くない。

 実子は俺の腹に突き立てた腕を下ろして、俺の顔を見上げる。


「水月姉のとこ、行く」

「行かなきゃダメか」

「うん」

「それまたどうして」

「水月姉には快斗兄が必要」

「……俺がどうしても行きたくないって言ったら?」


 すると実子は腕を組んで目を瞑って深いため息をついた。

 やがて考えが浮かんだのか、また俺の顔を見上げる。


「快斗兄、小さい頃、水月姉と結婚の約束したでしょ?」

「……小さい頃はノーカンだろ」

「水月姉に言ってくる」

「ちょっと待って」


 水月のことだから今の今まで本気にしているかもしれない。その可能性が無いわけじゃない。

 そこに実子という爆薬を突っ込んだら今以上に危険なことになりかねない。


 玄関に向かって踏み出しかけた実子の両肩を掴んで引き留める。


「わかった、俺が行く」

「よろしい」


 そう言うと実子は俺の後ろに回って背中を押し始めた。それに逆らわずに玄関へ向かう。

 玄関まで来ると実子は俺の背中を叩いた。たまに母さんが俺にやるように。


「ちゃんと謝ってきてね」

「はい」


 サンダルを履いて玄関を出る。家は真向かいなので支障ない。

 後ろで玄関の閉まる重い音がして、お向かいさんの前に立っている人がこっちを向く。

 俺の知る中で一番たばこが良く似合う中年の男性だ。向こうも俺のことを知っている。


「快斗君」

壮真そうまさん」


 若山わかやま壮真そうまさん、水月のお父様である。


「聞いたよ、冷凍睡眠コールドスリープ受けるんだって?」

「はい……」

「頑張ってね」


 えっと……話はそれだけですか……?

 本当にそれ以上は何もないという風に壮真さんは静かにたばこをふかしている。

 壮真さんなら水月の様子がおかしいことに気付かないわけがない。なのになぜ俺に何も聞かないのだろう?


「ああ、あと仲直りはちゃんとするんだぞ。それが長続きするポイントだ」

「はあ……」


 何かと思えば、なぜそんなアドバイスを……?


「水月だろう? 今日は珍しくお寝坊さんだから快斗君が起こしてあげてくれ」


 水月が俺より遅く起きた日など一度もなかった。風邪を引いたときも決まって朝早くに目を覚ましていた。

 そんな水月がこの時間に起きていないというのは一大事なのだ。大騒ぎが起きてもおかしくない。


 つまり全部理解しているのだろう。

 その上で怒らないでくれている。


「わかりました、ありがとうございます」


 心の中でさらに何回かお礼を言ってから若山家に足を踏み入れた。


 昔からのご近所さんで、水月と俺は互いの家を行き来する仲なので、基本的に勝手に家に上がることが許されている。

 今日もその例にもれず、インターホンを押さずにそのまま家に上がった。


「お邪魔します」


 するとバタバタと恵美さんが階段を下りてきて、その勢いのまま俺の手を掴んだ。

 恵美さんの表情はこわばっていて、手が痛くなるくらいに力がこもっている。


「快斗くん、水月が出てこなくて――」

「恵美さん、ごめんなさい、俺のせいです」


 すると、恵美さんは驚いたように目を丸くして、俺を見上げた。

 手の力が緩んだので、やんわりと払って離してもらう。


「だから、俺に任せてもらえませんか?」

「……そこまで言うなら」


 恵美さんは少し迷った素振りを見せたが、頷いてくれた。


 このまま水月の元気が戻らないと恵美さんと壮真さんがきっと心配する。そうならないために今できることはしておかないとダメだ。それが俺にできる最後の仕事だと思うから。


「じゃあお願いね」

「わかりました」


 その言葉に頷く。

 水月の部屋は階段を上って一番奥にある。

 そのドアを試しにノックしてみるが案の定返事はない。


「水月、俺だ、開けてくれ」


 一瞬、布団の音が聞こえたが他には何も反応がない。

 相当怒っているのだろうか。……そりゃ、怒ってるだろう。あんな言い方されたら誰だって怒る。


「水月、ごめん。昨日のことは謝るから」

「……うるさい」


 気怠そうな声がドアの向こうから聞こえた。


 寝てるわけじゃなかったみたいだ。寝ていたらどうしようもない。

 説得もできないし、謝ることさえできない。


「ごめん、お願いだから、機嫌直してくれ」

「……じゃあ昨日のあれ、取り消して」

「あれって?」

「……私とは付き合えない、時間を無駄にしたくないってやつ」

「それは……」


 俺にはもう時間はない。そしてぽっかりと時間が空いてまた生きることができる。

 今ここで水月を引き留めてしまったら、空いた時間は本当にただの無駄になってしまう。

 たかが俺のために年単位の時間を待たせるのはあまりに酷だ。


「……できない」


 水月は俺なんかじゃない他の人と時間を過ごしたほうが幸せになれる。

 だから、ここで俺が出しゃばっちゃいけない。

 


「……どうしてよ?」

「お前のために、できない」


 しばらくの沈黙が続いた。俺は一歩も動けず、向こうからも物音一つしない。

 それを破ったのは、ドアの鍵の開く音だった。

 俺は驚いて、ドアから一歩離れてしまった。

 ゆっくりとドアが開き、水月が顔をのぞかせる。


「入って」

「はい……」


 言われた通りに部屋の中に入る。

 すると、水月がドアを閉めて、ついでに鍵も閉めた。


「電気は点けないのか?」

「そのままにしといて」

「了解」


 カーテンは閉められたままで、電気も点いていなかった。明かりはカーテンの隙間から差す陽の光だけ。

 水月はベッドの淵に腰掛けて、俺のほうを見ながら、自分の隣をポンポンと叩いた。

 素直に従って、隣に座る。


「私、そんなに可愛くない?」

「……いや」

「そんなに嫌われてた?」

「そんなことない」


 水月の声は少しずつ、悲痛に掠れていく。今にも泣きそうな声だ。


「私じゃ彼女に相応しくない?」


 一瞬、頭が回らなくなった。開きかけた口を噤んで、新しく言葉を選んで伝える。

 心が痛いのは気にしない。ここを乗り切らなければ後もないのだから。


「水月は俺の彼女になっちゃいけない」

「……どうして?」


 ついに堪えきれなくなり、水月の目からは涙が溢れる。

 俺は自然と水月の頭に手を伸ばし、反対の手で涙を拭っていた。


「お前が幸せになるために」

「……私、快斗以外とは幸せになれない」

「そんなことないよ」


 右手は優しく頭を撫でて、左手は背中を優しく叩く。いつも水月が泣いたときにしてきたことだ。

 肩口に水月の額が寄せられて、距離が縮まる。


「ううん、私は快斗じゃなきゃダメ」

「代わりはいくらでもいるって」

「……快斗以上の人が見つかると思う?」

「さあな、でもどこかにいるんじゃないか?」


 俺はあくまで素っ気なく、淡々と返事をする。言うことはほとんど決まっている。俺を諦めてもらうこと。俺では幸せになれないということ。俺には何もできないということ。それらを伝えるだけだ。


「ねえ……」

「なんだ?」


 すっかり俺の肩に顔をうずめてしまった水月が、俺の背中に手を回した。

 ちょうど、俺に抱き着くような形だ。


「今日だけでいい。一緒にいさせて……」


 こいねがうように呟かれたその言葉は俺の心を揺らした。

 でも倒れはしなかった。ここで倒れてしまったら本当に負けになってしまう。みんなが不幸になってしまう。

 だからここらが落としどころだろう。


「わかった」

「ありがとう……」


 安堵の混じったその声はすぐに泣き声に変わった。

 また、俺は水月を撫でながら抱きしめることしかできない。

 それでも、今日だけはこれでいいのだと、自分に言い聞かせて我慢した。


 これ以上は水月もわかっているだろうし、言わない。

 わざわざ言うほど性格が悪いわけじゃないし、そこまでの勇気もない。

 だから、自分の中に押し留めた。


「ごめん、さよなら」


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