第6話 研究所の兵士
久しく嗅いでいない土の香りに、ひんやりと肉球に伝わる芝生の感触。
足早に駆けていくクロウの背中に、セナの声が追いすがる。
「あ! 逃げないでよ!」
「逃げない、逃げない」
クロウは無造作に背後に言い放ちながら、目の前を見渡す。
家のすぐ前を、土を踏み固めただけの道が横切っていた。車両の往来があったのか、いくつか薄っすらと轍が引かれている。
その後ろには下草の多い針葉樹林が広がっていた。決して見通しの悪くない森だが、吸い込まれそうなほどに延々と奥深く続いている。人の気配は全くない。
振り返って、今出てきた家の方に向き直った。
クロウの予想通り、セナの家はただの家屋ではなかった。べったりと芝生や苔に覆われた平屋程度の小さな山、その麓から灰色に塗られた扉が覗いている。
半分ぐらい開いた扉の間から出てきたセナは、クロウのもとに駆け寄ってきた。その右手には見るからに古臭い散弾銃をぶら下げている。
「もう! 急に飛び出したら危ないじゃない! 野犬だっているんだから」
「や、野犬?」
クロウは一人で出歩こうとしなかった自分を褒めるとともに、セナに保護された幸運に感謝した。人間と同程度に頭が良いと言ったって、犬との絶望的な体格差は覆せない。
「それはそうと、あんたの家、核シェルターか何かか?」
顎で小山を示す。
「さあ? 詳しくは知らないけど住み心地が良くないのだけは確かね」
セナは僅かに笑って皮肉交じりに答えた。
「で、ほら、あれが温室」
そうセナが指さした先を目で追うと、そこには全面ガラス張りの建物が佇んでいた。人里離れた森の中に忽然と現れているその姿は不自然極まりなく、宙に浮いているかのようだ。すぐ脇には泥汚れの目立つ小型トラックが停められている。
セナの後ろから続いて温室に近寄ろうとした時、冷たい一陣の風が全身を撫でた。
「ちょいと冷えるな。あんたはそんな恰好で寒くないのか?」
「もう秋だからね、そりゃ寒いわよ。でも、温室でいちいち脱ぐのが面倒だから。そういえば、あなたのジャケットならそこに干しておいたわよ」
セナが若干身震いしながら示した先、温室の入口あたりにクロウのジャケットがぽつんと掛けられていた。
駆け寄って、ほのかに暖かくなっているジャケットに袖を通す。
「あ~、暖かい」
「全身毛が生えてるのにわざわざ服着るのね」
クロウにとってそのセリフは聞き捨てならなかった。確かに防寒という意味では大した効果がないのは事実だが、何も服を着る理由はそれだけではない。
「このジャケットは、いわば俺が人間と対等な知的生命体である証明なんだよ。服っていうのは体に着るもんじゃなくて、心や知性に着させるもんなのさ」
「ふーん」
あからさまに興味なし。
「あんただって、暑いからって裸で過ごしたりはしないだろう?」
「……」
「……おい」
「いいじゃない! 家は風通し悪いし、服はあまり持ってないし、人通りは少ないし!」
顔を赤く染めて一生懸命弁解するセナ。
その様子を見て、恥ずかしいと思うなら嘘で誤魔化せばいいのに、とクロウは内心思う。
クロウの見た目に騙されて、べらべらと言わなくてもよいことまで喋ったり、隙を見せたりする人間は多い。特別セナの脇が甘いわけではなかった。
馬鹿にされているようで良い気分はしないが、そのおかげで何度も助かっているのだから文句は言えないし、言うつもりもない。
「寒いから、さっさと入りましょ」
セナが気まずそうに言う。まだ少し赤らめている横顔が見て取れた。
そのまま温室へと入ろうとした時、クロウの耳にうっすらとだが車のエンジン音が届いてきた。
すぐさま顔を音のする方向へと向け、意識を集中させる。
「どうしたの?」
突然立ち止まったクロウを不思議に思い、セナが声をかけてきた。
「車だ。数は一台、どんどん近づいてきている」
セナは「えっ」と一瞬声を漏らし、それから慌て始める。
「たぶんキースね。とりあえず隠れて!」
セナは急いで温室の扉を開けると、そこにクロウを手荒く押し込んだ。それも足で。
じんわりと暖気に包まれる。想像していたほどは暑くなく、むしろ快適な部類だ。
クロウは粗雑な扱いに抗議しようと扉を引っかいたが、タイヤの砂利や土を踏む音が聞こえてきたので、すぐに近くの茂みに飛び込んだ。
温室の中は色の薄い黄色っぽい土壌に、人の背丈ほどあるかないかという木が規則的に植えられていた。実物を見るのは初めてだが、これがコーヒーの木だろうか。青々とした大きな葉が自重で首をもたげていた。
それらに混じって、天井付近まである大きな木も植えられているため、温室の中は外よりも多少暗かった。
幸いにも隠れるところは山ほどある。息を潜めて温室の外に耳を澄ました。
セナが誰かと話しているようだった。ごく普通のボリュームで且つガラス越しだが、クロウには十分聞き取れる。
「ど、どうしたのキース、何か用?」
あまりにも分かりやすくうろたえているセナに、クロウは苦笑を禁じ得ない。
「あー、いや、所長から色々と頼まれてな。昨日墜ちてきた宇宙船のことなんだが」
キースと呼ばれた男の声が後から続いた。セナとは知り合いらしく、くだけた調子で話している。
「何か分かったの?」
「所長の話では、船の損傷が激しいから地球への着陸は不本意なものだろう、って。あと、船には猫が乗っていたらしい」
「へ、へえ、猫……ね」
「パイロットも未だ行方不明だ。何か見かけなかったか?」
「いや全然!」
声だけですらこの様子だ。表情まで露わならどれほど分かりやすいか、セナが、あの透き通った瞳をぱちくりさせながら慌てふためく様が目に浮かぶ。
「それはそうと、こんな時間に温室で何してたんだ? 収穫が終わったからしばらくゆっくりできる、ってこの前言ってただろ」
「あはは、ちょっと気になっちゃって。その宇宙船のパイロットが隠れてるかもしれないし……あっ」
「『あっ』って何だ」
「いや何でもないの。うん、全然。あ、ちょっとやめてよ! 誰もいないって!」
扉が勢いよく蹴り開けられた。無論、セナが上手くやり過ごしてくれる、なんて希望はとっくに捨てていたクロウには想定内の事態だ。
入ってきた男はネイビーブルーのキャップを前後逆に被り、薄く顎鬚を蓄えている。年齢はあまり若くはなさそうだが、中年というほどでもない。
しかし、そんなことよりも否応に目に付いたのは、近接戦闘のために体の近くで構えた拳銃。セナのオンボロ散弾銃と違ってこちらはポリマー製の現代的なものだ。
発見されないように位置を変えながら、さらにその男を観察する。カーゴパンツに黒いニーパッド、グレーのフィールドジャケットの上にこれまた黒いプレートキャリアを身に着けていた。細身ではあるが構えからしても、ただ銃を持っただけの素人ではないのは明白だった。
とはいえクロウも逃げ隠れには自信がある。意識の奥底に眠る猫の本能を引き出し、四足歩行へと切り替えた。ただでさえ軽い体重をしなやかな動きでさらに分散させ、ほとんど無音で移動する。
クロウは、間近に感じられる土や草木に呼吸を合わせる。もはや自身と自然の区別すら判断がつかなくなるまで気配を溶け込ませた。
これなら一日中だって隠れ続けていられるだろう。
男の次の動きに意識を集中し、いつでも適切な隠れ場所へと動けるように脚に力を込めた。
しかし男は入口近くから動かず、視線だけは部屋の全体に走らせている。そして、すぐ背後の壁に設置されている機械に手を伸ばした。
今まで困った顔で見守っているだけだったセナが、慌ててその手を阻もうとした。
「ねえ! 勝手にいじらないで!」
しかし間に合わず、レバーが下げられる音。
クロウは何が起こるのか、と身構えた。次の瞬間甲高い空気音がしたかと思うと、全身に冷たいものが降りかかった。スプリンクラーだ。
「にゃ!」
全身に張り巡らせていた緊張がはち切れ、それらが全て声に変換されてしまった。
今ので完全に見つかってしまっただろう。男は冷水が降り注ぐ中、一歩一歩距離を詰めてきている。逃げようと思っても、濡れた体は石のように重い。
相手の力量と環境を見誤った結果の完全な敗北だ。
男はそのままクロウの首根っこを掴んで、ひょいと片手で顔の前まで持ってきた。
「あーあー、こんなびしょ濡れになっちまって。セナ、タオルを持ってきてくれ」
不機嫌そうな面持ちで温室の隅に立っていたセナは、男にそう言われ部屋を出ていく。タオルはすぐ近くに干してあったようで、三十秒も経たずに戻ってきて白いタオルを数枚男に投げ渡した。
男はクロウのことを抱えながら、タオルを三枚使って手荒くクロウの全身を、余った一枚で自分の顔を拭いた。
そして、またクロウを顔の前に持ってきて口を開く。
「今からこの猫に馬鹿らしいことを聞くぞ。笑ってもらっても構わない」
男は一度セナの方を振り返る。セナは、意味が分からない、といった様子だ。
特に自分の言葉について説明せず、男はクロウに向き直ると言い放った。
「あの船のパイロットは……お前なのか?」
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