旅立ち

 旅をしようと思い立った。君と一緒に。

 僕は本屋で旅行本を買った。善は急げというだろう、と彼女に言ったら、曖昧に笑ったまま返事はしてくれなかった。その笑顔を同意ととった僕は、旅先を決める。温泉がいいかな。登山にしようかな。海辺で遊ぶのは時期的にどうだろうか。ページをめくり、行き先を決めるのは悩んだが楽しかった。

 結局温泉にした。彼女の荷物は少なくて、僕の方が何倍も多かったので、なんだか恥ずかしくなった。

 付箋を貼った旅行本を鞄に突っ込んで、電車で二時間ほどの距離にある温泉街へと二人で向かう。電車の旅に飽きてきた頃、僕はどうしてここに決めたのかを彼女に話した。お互い金欠だったが大学時代に一度、テレビで紹介されたその温泉旅館を見て、二人でいつか行こうと約束したよね、と。旅行本に偶然載っていて思い出したんだ、と僕は意味の無い嘘をついた。けれど、彼女は嬉しがるどころか、またお得意の微笑みを浮かべて返事を濁した。僕ばかりが覚えていると少々寂しくなったが、それもまた、彼女が好きだから仕方が無いことだと思った。惚れてしまった方が負けなのだから。

 旅館は風情のある佇まいだった。庭の松が立派で、僕は一目で気に入った。女将さんに話を聞くと、旅館の建設当時からあるらしくもう二百年はここでこの土地を見守っている老松だという。

 部屋に案内された僕は彼女と温泉街の散策に出かけた。至る所から湯けむり立ち昇るその風景を初めて見た僕は感動した。来てよかったね、と彼女に声をかけ、返事を聞かずに売店で温泉卵をふたつ購入した。ほんのり硫黄の香りがしていつも食べている卵より何倍も美味しかった。

 夜は静かだった。温泉を堪能した僕が部屋に戻ると、夕食が並べられていた。部屋で待っていた彼女と一緒に豪勢な食事を楽しみ、あとは眠るだけとなった。

 夜は静かだった。流れる雲に月が隠れて、あたりは暗く沈んでいた。あとは眠るだけ。硫黄の匂いのする粘っこい闇は、僕の手足にぬるぬると絡みつき、手にしたロープをあの松の枝へと一度二度とかけさせた。

 僕は彼女の指を握る。お守り袋に入れたひと欠片の遺骨。小指の先。指切りした約束。瞼を下ろせばあの優しくて曖昧な笑みを浮かべる彼女がいた。なにも答えてくれない彼女。黙ったままで、最期に見せた表情と同じ、曖昧な笑みを僕に投げかける。

 出来上がっただらしのない輪に、僕は首をかけた。誰に向けるでもない謝罪を一言残して、僕はその、安寧に繋がるロープへと飛びうつった。

 止まる息。下へと引かれる体。空気を吸い込めず。食い込むロープ。絞まる気道。苦しくて噎せようにも動けず。膨れるあたま。苦しく。くるしくて。こんなの。

 大きな音を立てて、枝が折れた。地面に投げ出された僕は、彼女の指を握りしめて泣いた。自分の愚かさが醜くて仕方がなかった。まだ。まだ生きていたいと死にたくないと思ってしまった僕を、彼女はどう受け取っただろうか。瞼の裏の彼女はいつものように曖昧な笑みを浮かべるだけで、なにも答えてくれなかった。

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