10 大きな揺らぎのなかに
「ルー=フィンは、ボウリス神殿長のもとに届いた手紙のことをだいぶ気にしていたと言う」
「それは、気にするでしょう」
「気にするな、とお前は言ったじゃないか」
「ええ、陛下が気になさる必要は、ほんのかけらたりともございません。ですがボウリスと……そうですね、ルー=フィンは気にするでしょう」
数月前のことだった。ボウリス新神殿長に、余所からその一通目の書が届いたのは。
それはヨアティア・シリンドレンの筆跡と思しく、綴られていたのは、恨み言のような文面だった。
前神殿長の息子が生きている、というのは正直に言って誰にとっても嬉しい知らせではなかったが、かと言ってヨアティアには何もできないだろう、と誰もが考えた。
ボウリスはアンエスカが探し出して説得したシリンドレン家の才人だ。ヨアフォードの暴虐には心を痛め、身内ではあったがヨアフォードとヨアティアの処刑やむ形無しと考えていた男だった。混乱の間は民たちをまとめ、彼らからの信頼も厚かった。
そのボウリスを書は「身内の不幸を足がかりにして神殿長の座に昇った不埒者」というように罵った。
地位を奪いに行くだの、殺してやるだのという内容でなかったことは、差出人――ヨアティアとしか考えられなかった――がシリンドルへやってこようという意図がないことを感じさせた。
だが、それは二通目三通目となる内に脅迫めいた雰囲気を帯び、殊、ボウリスの不幸を願うような呪いの言葉が増えてきた。夜は背中に気をつけろなどという、ちんぴらめいた文言も加わったのが、数日前に着いた書だった。
それでも所詮は
「判りました。ルー=フィンと話をします」
「そうしてくれ」
ほっとしてハルディールはうなずいた。
そのときである。
「アンエスカ!」
ばたばたと角を曲がってきた足音があった。その人物は、そこに目指す騎士団長だけでなく、若王の姿があることに気づくと、軽く会釈をする。
「どうしたんだ、エルレール」
姉弟であっても、ハルディールはいまや王である。エルレールは弟王への礼儀を欠かすことはなかった。
「いないのよ」
だがそこで礼儀を取り払って、エルレールはまず、そう言った。
「いない?」
「ルー=フィンが、今朝から、どこにも」
王女はそう続けた。
「近頃はクインダンよりも早く訓練をはじめていることも多かったのに、今朝はこなかった。彼が気になって様子を見に行ったら、部屋にはいなかったと」
「朝の参拝にでも、行ったんじゃないのか」
戸惑いながらハルディールは尋ねた。
「念のためにクインダンが〈峠〉に向かったわ。でも昨日、彼と分かれる前におかしなことを言っていたから、気になると」
エルレールは両手を組み合わせてもどかしそうな顔をした。
「おかしなこと?」
「神の加護は……シリンドルを遠く離れても受けられるものだろうか、などと」
その言葉に王と騎士は顔を見合わせた。
「神官たちにも探させたけれど、神殿には……」
「いないのか」
「ええ、それに」
エルレールは息を吐いた。
「厩舎を見に行かせたわ。彼の〈銀白〉号も、いないのよ」
「アンエスカ。これは」
「――ヨアティアを探しに行くつもりか」
騎士団長は顔をしかめた。
「だが、当ては何もないはずだ。書は誰も知らぬ間に届くと聞いた」
手紙が町を越え、国を越えて届くとき、そこには善意の第三者の手が通っていることが多い。差出人は「どこそこの町へ行くなら、これこれという人のところに届けてくれないか」と頼み、頼まれた側は、報酬をせびることもあるが、どうせ行くのだからと引き受ける。
ヨアティアの書もそうして届けられたと見えたものの、届けた人物を誰も見ていなければ、どこでその手紙を受け取ったか尋ねることもできなかった。
魔術師協会を使ったということも有り得る。そうであれば、協会は決して依頼人のことを洩らさない。やはり、判りようがなかった。
「内容からも、推測できる材料は何もありませんでした。だからこそ、神の加護をと願ったのか」
「益のない探索行だ。とめなければ」
「いえ、陛下」
アンエスカは首を振って、眼鏡を外した。
「行かせましょう」
「何を言うんだ」
少年王は驚いた。
「彼は〈シリンディンの騎士〉の座にこそないが、僕はお前たちと同じだと」
「だからこそ、です。正式な騎士の座にあれば、彼は私や陛下の命令に従うことになる。無論、シリンドルの民である以上、騎士でなかろうと陛下の命令には従うべきですが、そういう話でもない」
「騎士の座にないから、僕の命令がどうあろうとヨアティアを追うのだと? 誰もそんなことは望んでいない、彼にはこの国を守ってもらいたいのに」
「それがヨアティアを見つけ出すことだと、彼は判断したのですよ。それに」
アンエスカは息を吐いた。
「ミキーナのこともある」
「だが……」
「ええ、彼は耐えました。本心ではあのとき、すぐさまヨアティアを追いかけたかったはずです。ですが、あのときはこらえた。冷静な若者です。あのときヨアティアを追えば、彼はヨアティアと共に逃げたと取られかねなかった。それを避けた」
それから、とアンエスカは続けた。
「復讐をしても彼女は帰らないと知っていた。国のために残ることを選んだのです。しかし」
「ヨアティアの手紙が、彼の心に血を流させ続けた」
ハルディールがあとを引き取った。
治りかけた傷痕は、繰り返し、えぐられた。ミキーナが死んで、彼女を殺した男が生きているということ、ルー=フィンは忘れることができなかった。
少年王は若い剣士の心の内を思った。それは、彼自身も経験した痛みだった。両親を殺したヨアフォードがのうのうと生きていると思ったときに繰り返し感じた、腹の奥に溜まる重いもの。
だが、復讐をしても、死者は帰らない。ハルディールはそれを知っていたし――ヨアフォードが死んだあとも、爽快感などはなかった。
「……お前は、ルー=フィンの選んだものを認めるんだな」
「私が認めるかどうかは関係ありません」
「だが、認めているな」
ハルディールは追及した。仕方なくアンエスカはうなずいた。
「私も陛下と同じように思います。ルー=フィンにはこの国で、たとえ騎士とならずとも、新しい騎士たちを育てていってほしいと。ですが彼が決めたことだ」
「説得をする気もないのか」
「本気で説得しようと思えば、できるでしょう。彼は大きな揺らぎのなかにいますからね。ですが」
その気はない、と騎士団長は答えた。
「何故だ」
「益がないと仰いましたが、運よく、それとも神の加護あって彼がヨアティアを見つけ、後顧の憂いを絶てば、それはシリンドルのためになります」
「あの書は
「空言と思っておりますよ、本心から。ですが、それはいま現在の話だ。将来的に、絶対に憂いにならないとも限りません」
「だが……」
「判っています。陛下は彼を探索行に出すおつもりなどなかった。いまでも、ないのでしょう。ですが、彼は命令をしても聞きません」
「だからお前が説得を」
「それはご命令ですか」
アンエスカは問うた。ハルディールは躊躇った。
「ご命令であれば従います、陛下」
「お前は、ずるい」
ハルディールは顔をしかめた。
「自分の意見は違うと言いながら、僕に命令をさせるのか」
「何でも追従すればよいというものではないでしょう。意見が異なれば申し上げるのが忠臣の務めです。同時に、命じられれば従うことも」
「心と違えども?」
「臣下の感情を慮るのは大切なことですが、そればかりでは立ちゆかないこともあります」
彼は言った。
「ルー=フィンが決めたことだと言いましたが、ハルディール様もお決めになることができる」
「僕は、シリンドルから騎士が減ってしまうのは望ましくないと思う」
「ルー=フィンは騎士ではありませんね」
「そこだ」
少年はうなった。
「僕は彼もまた〈シリンディンの騎士〉だと思っている。正式な辞令と制服以外、彼はそのものだ」
「ですが」
そうではないとアンエスカは繰り返した。
「――判った」
ハルディールはうなずいた。
「国の外に、騎士の義務があると、ルー=フィンがそう考えたのなら」
彼は息を吐いて、エルレールを見た。
「クインダンに、謝らなくてはな。彼のよい助手をなくしてしまうことになる。だが」
王は祈りの仕草をした。
「彼は必ず、帰ってくるだろう」
「ええ……そうね」
王女巫女もまた、祈った。
「必ず帰ってくるわね。彼の、神の国に」
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