09 若き王
時は、平穏に流れていった。
ほんのひと月の間に起きたシリンドル史上稀に見る大事件は、しかし次第にその影を薄れさせ、人々はあの暗い夜について話をすることこそあったものの、恐怖に身をすくめることはもうなかった。
若き王ハルディール・イアス・シリンドルの即位は、滞りなく民に、そして神に認められた。
いまだ慣れぬ業務に区切りをつけると、ハルディールはからりと晴れた青空を見上げながら、即位の日のことを思い出していた。
あれは、冬の初めにはまだ珍しい、雪天だった。
〈峠〉の神殿を出て空を見上げれば、白い空から粉が舞い降りていた。ハルディールはその風景を心に刻みつけた。
『――雪は』
「雪は凶兆だろうか」
それを見たとき、そう呟いたことも。
「僕の代でもまた、酷い雪嵐が起き、雪崩が起きるだろうか。もしそのようなことがあれば」
そこで彼は言葉をとめた。
ヨアフォードが正しかったのだろうかなどと口にはできない。思うことすら。彼は、国を襲った理不尽な暴虐者を退治した、そうでなければならない。
神殿の外で待っていた騎士団長は続きを促すことなどせず、黙って少年の細い肩にマントを羽織らせた。
ようやく定まった新神殿長は、神殿のなかで祈りを捧げていた。彼は彼で、思うことがたくさんあるはずだった。
「アンエスカ」
空を見上げたままで、少年は呟いた。
「扉のなかに……何があったと思う?」
王にのみ開かれる扉は、ハルディールの前に難なく開いた。その瞬間、扉に描かれた若木の紋章を包んだまばゆい光のこと、彼は生涯、忘れまい。
「お訊きいたしません」
そっと騎士団長は答えた。
「そうか。では、これは僕の独り言だ」
「――
その新しい呼称に対して湧き上がったのは、誇らしさと、迷い。
本当に、これでよかったのかと。
「ほとんど飾り気のない部屋だった。奥に一段、高くなっている場所があって、そこにもうひとつの坪庭があった」
彼は独り言を続けた。
「黒い髪をした子供の姿が見えたと思った。だが、確信に至るよりも早く、消えていた。何も言葉はなかった。そのあとで、そこに白い花が咲いているのに気づいた」
「白い、花」
アンエスカも呟いた。
「ラウディール様が、一度だけ、口になさったことがありました。奇跡を成すのは多弁の白い花だと、いうような」
新王の独り言は、独り言ではなくなった。
「そう。数えられぬほど小さな花びらがついていた」
彼はうなずいた。
「とても美しくて、何も知らなければ、僕はそれを神の花だと思っただろう。〈峠〉の神の、祝いの花だと。だが、これが例の……薬草なのかと思うと」
そこで少年は、黙った。やはりアンエスカは、続きを求めなかった。
「――僕は坪庭に近寄り、花に手を伸ばした。だが、触れる前に引いた。すると、花は、消えたんだ」
「消えた……」
「ああ。これは何を意味するのか。僕は、神の花を拒んだのだろうか」
「ラウディール様や、代々の王が、白い花を手に戻ってきたという話は聞いたことがございません」
アンエスカは言った。
「神が何を考えるものか、それは判らない。ですが陛下。神は陛下を認め、王にのみ開かれる扉を開いた。その先の選択で、神が新王を試すようなことはないかと」
「そうであれば、よいが」
ちらちらと舞う粉雪を見ながら、彼はそっと祈った。
「――あ」
「どうされました?」
「いま……」
視界の端に、何か映ったように思った。素早く顔を巡らせたが、確認はできなかった。
だが。
(いま、確かに)
(鷲の姿が)
こんな雪の日に、どこからどこへ飛んでいったものか。
彼を祝福に、きてくれたものか。
「こないようだな」
少年は、見えなくなった影を探すことをやめ、視線を地上に戻して声を発した。
「何です?」
「タイオスだ」
「ああ、それですか」
瑣末事である、というように、アンエスカは肩をすくめた。
「所詮、そうした男であったということですな。護符をくれてやるのではなかった」
「アンエスカ」
咎めるようにハルディールは声を出した。
「タイオスに護符を渡すというのは、僕が決めたことだ」
「左様でございました」
アンエスカは謝罪の仕草をした。
「もっとも、僕は判っている。僕だけじゃない、お前も、タイオスがやってこないことに落胆しているということ」
「何を仰るのです」
アンエスカは顔をしかめた。
「私はもとより、陛下の即位式にあれを招くなど反対でした。やってこなくて、せいせいしています」
聞き慣れぬ呼称に少しくすぐったいものを覚えながら、ハルディールは笑った。
「そう言うが、どうすれば彼に確実に招待状が届くか、お前はずいぶんと懸命に考えていたじゃないか。使いをやるにも旅慣れた者などいないからと、結局、魔術師協会のある町まで出向くことにしたな。魔術師は、好かないようなのに」
「陛下のお望みでしたから、考慮したまでです」
アンエスカは答え、自分の希望ではないと主張した。
「僕はタイオスに、平穏を取り戻したシリンドルを見てもらいたいと思っていた。お前も同じだろう」
「畏れながら、陛下。違います」
ふん、と騎士団長は鼻を鳴らした。
「彼は、やってくるべきではない」
アンエスカは続けた。
「――平時に〈白鷲〉は必要ありません」
その言葉にハルディールは目をしばたたき、沈黙した。
「そうか」
しばらくしてから、そっと少年王は呟いた。
「そうだな」
粉雪の舞い降りるなか峠を下りれば、麓に着く前に雪はやんだ。否、降っていなかったと聞いた。
それが何を意味するのか、何かを意味するのかも判らぬまま、ハルディールは戴冠した。人々は喜びの声を上げ、新王の隣で少年騎士は王家の旗を振った。
王にのみ開かれる扉の向こうにあるものについて、ハルディールは歴代の王と同じように、そのとき以外は口をつぐんだ。歴代の側近たちと同じように、大臣たちも新しい神殿長も、それについて彼に尋ねることをしなかった。
神がシリンドルを見守っている。
そうであれば、彼らにはそれで充分だった。
ハルディールはもはやひと月以上前になろうとしている出来事への回想を断ち切ろうと首を振ると、青い空から目を離して立ち上がった。
「――アンエスカ!」
そのまま彼は王の部屋から廊下に顔を出すと、ちょうどどこかへ行こうとしていたアンエスカを見つけて声をかけた。
王が騎士団長を呼びたければ、使用人にでも命じればいい、というのは大国の常識だ。シリンドルでは、王陛下であろうとも、たくさんの使用人を抱えていたりはしなかった。彼らは館の掃除や炊事洗濯で忙しく、日がな一日ハルディールの隣で指示を待ってはいられなかったのである。
よってハルディール王がアンエスカに話をしたければ、彼は自分の足で部屋を出て、相手のところに向かわねばならなかった。
「
シャーリス・アンエスカはくるりと振り向くと、正式な礼をした。
「何でしょうか」
「急ぎの用事があるのか? それなら、あとでかまわないが」
「いえ、訓練の様子を見に行くだけですので、緊急という訳ではありません」
「それなら、クインダンからは、何も? それとも、聞いたから様子を見に行こうとしたのか」
「何ですって?」
騎士団長は眼鏡の奥の目をしばたたいた。
「何のお話なのですか」
「今朝方、クインダンが知らせにきたんだ。このところ、ルー=フィンの様子がおかしいと」
「ああ」
アンエスカは肩をすくめた。
「そのことですか」
ルー=フィン・シリンドラスは、〈シリンディンの騎士〉になるための試験を一番の評価で通過した。
だが彼は、〈シリンディンの騎士〉ではなかった。
団長が認めなかったのではない。彼自身が、あろうことか辞退をした。
試験に臨んだのは、自分にそれだけの資格が本当にあるものか知りたかったためだと若者は言った。答えは「ある」ということになったのだが、彼は拝命しなかった。
馬鹿にした話だ、と腹を立てる者もいた。ルー=フィンの評価はそのときまで上がる一方だったのに、そのことで彼をやはり信用ならないと考え直す者もいた始末だ。
もっとも、ハルディールやアンエスカは理解した。
ルー=フィンは、いまだに自信を持たないのだ。
彼の信じてきたものが根底から覆された、その損傷から立ち直れていないのである。
たとえヨアフォードの話が嘘、または間違いであったとしても、「ヨアフォードが、ラウディールの息子を使おうと考えていたこと」がルー=フィンにずっと刺さっていた。彼はまだそれを抜くことができていない。
時間がかかると、彼らは考えていた。
しかし、それなら時間をかければいい、とも。
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