08 お帰りなさい
コミンの町は、変わらぬ姿でヴォース・タイオスを向かえた。
中年戦士は安堵の息を吐いて、よく見覚えのある町並みを歩いた。
「よう、タイオス。まだ生きてたか」
「そっちもな。変わりないか」
「ないない。いっそ笑っちまうくらいに、変わり映えのない日々だね」
見覚えのある顔と交わす、軽口。
帰ってきたのだ――という思いがタイオスの内に湧き上がった。
「いい天気だなあ」
そんなことを呟いて、笑みが浮かぶのを感じた。
波瀾万丈は、おしまいだ。国の存亡も王子様も神の奇跡もなし。
嫌だった訳ではないが、正直に言えば、疲れた。若い内ならもっと長くシリンドルに残ってあれやこれやと手伝ってやっただろうが、あまり長いことあの国にいれば抜き差しならなくなるようにも思った。
〈白鷲〉。伝説の存在。
きらきらと目を輝かせて「タイオス様」と呼びかけられるのはいい気分だったが、狎れてしまうことは避けたかった。
立派なのはあくまでも〈白鷲〉の称号であって、彼自身がたいそうな人間だというのではない。そこを勘違いしていきそうなのが怖かったのだ。
もう少し若ければ、もっと素直にそれを受け入れただろうか。
それとも逆に、もっと年を取っていれば?
美しい景観、純朴な人々、喧噪のない小さな町。
シリンドルこそ、彼の望む老後が過ごせる、夢のような土地と言えた。若い妻だって、きっと簡単に得られただろう。何しろ、伝説の存在だ。
(何だかんだ言いつつ)
(俺はまだ、引退する気がないんだなあ)
出した結論はそれだった。
もう自分に「開けた将来」などはないと考えることは何も自虐ではなかったが、かと言って、引退だ、穏やかな暮らしだ、と口にするのは一種の逃避だった。
自分はもう若くないと主張し、自覚することによって、若い頃のように逸ることをやめようと。
(だが、ハルに引き戻されちまったようだ)
(期待されることへの喜び、か)
まだ当分、自分は落ち着かないだろう、と戦士は思った。
もっとも、国を賭けるような大きな話は、もうご免だ。以前のように隊商の護衛、金持ちの警護、そんな仕事をこなしては小金を稼ぎ、いつかは――。
(引退先は、シリンドルでもいいな)
いつもと同じような考えに、新たな提案を継ぎ足して、中年戦士は少し笑った。
コミン。
見慣れた町。見慣れた人々。
ここを出てから半年も経っていないというのに、彼はティエのことが無性に懐かしかった。
カル・ディアル第二の首都とも言われる大都市も通ってきたが、娼館には寄らなかった。
まっすぐに、帰ってきた。
〈紅鈴館〉が開くにはまだ早かったが、タイオスはそのまま足を彼女のいる場所に向ける。客と春女ではなくとも、友人同士として話す時間を持てばいいだろう。そのついでに、今夜の予約をしてもいい。
そんなことを考えながらよく知る娼館のある通りにたどり着いた彼は、その入り口の前で荷馬車を見つけた。
「うん?」
食品の搬入などであれば裏でやるはずだ。何だろうかと首をかしげたタイオスは、そこに懐かしい姿を認めた。
「ティエ!」
「あら、ヴォース」
荷馬車の上に、四十前ほどのすらりとした小柄な女が立っていた。彼女は戦士に気づくと片手を上げた。
「どこに……どこかに、行くのか」
小走りに近寄ると、彼は尋ねた。
ティエの服装は、旅支度のように見えた。舞台で着るような露出の多いものではないどころか、ちょっとその辺りに買い物に行くという感じでもない。きちっと留め具をはめた上衣に、男物のような下衣は、散歩では済まないところへ出かけるかのようだ。
そう思うとタイオスはぎくりとした。
シリンドルで見た、奇妙な夢。
ティエは、コミンとタイオスを離れてどこかへ行くと言っていた。
(あんなのはただの夢だ)
(だが)
そう、あの場所はシリンドルだった。神の奇跡が存在する国。
「ここを出るのか」
「あのね、ヴォース」
ティエはしゃがみ込むと眉をひそめた。明るい茶の髪が揺れる。
「どこへ行くとかどこから帰ってきたとか、そういうことを尋ねるのは私の方じゃないかしら、旅の戦士さん?」
「ああ?」
タイオスが顔をしかめると、ティエはひらりと荷馬車から飛び降りて、戦士の前に立った。そうすると、彼より頭ひとつ分以上も身長の低い踊り子は、戦士を見上げる形になる。
「今回はずいぶんと長かったみたいじゃないの。もっとも、騒ぎを起こして逃げていた、と言うのが正しいんでしょうけど」
とん、とティエはタイオスの胸を叩いた。
「何?……騒ぎ、ああ、騒ぎね」
ずいぶん昔のことのような気がする。
「嫌だ、忘れたの?」
「忘れた訳じゃない。それに続くごたごたがややこしかったんだ」
「そうでしょうとも」
ティエはうなずくと、タイオスを手招いた。彼は身をかがめて、何だと問う。
「何があったのかは知らないわ。でも、女将はあなたが狙われたらしいという話を町憲兵隊には洩らしていない。心配しなくていいから」
「ああ……そうか」
蘇る記憶。〈白鷲〉を探しにやってきたルー=フィンが、〈紅鈴館〉の春女ラベリアを殺した。
あのときはまだ、ハルディールが王子であることも、彼は知らなかった。
「そうか、それは助かる」
「剣や財布もとっておいてあるわよ。帰ってくるか判らなかったけど」
「そうか」
助かる、と彼は繰り返した。
愛用の剣が無事ならば、そちらを使うことにするかなと戦士は考えた。あれはまだ充分使える、現役だ。引退はまだ早い。
新しい方は売ってもいいし、とっておいてもいい。記念にも換えにもなるという訳だ。
「何があったのか、話してもらえる?」
「そうだな」
タイオスはゆっくりとうなずいた。
「俺の戦士人生のなかで、いちばん派手な冒険だった」
「それは、体長五ラクトの蛇より?」
どこか面白がるような調子でティエは言い、タイオスは笑った。
「ああ、猛毒の大蛇より、だ」
「帰ってきたばかりね。埃まみれじゃないの。公衆浴場に行く? 私も行くところだから」
「……ん?」
彼は目をしばたたいた。
「お前もどこかに行って、帰ってきたってことか?」
「そうよ。少し前に、ようやくラベリアの故郷と両親が存命であることが判ったの。侵入してきた賊に殺されただなんて話はしたくなかったから、ちょっと嘘をついてきたわ。事故に遭ったとね。哀しませてはしまったけれど、身内に弔ってもらうといいと思ったから」
ティエは、死んだ同僚の訃報を伝えてきたところだと言う。タイオスは額に手を当てた。
「何だ。俺ぁてっきり、お前がどっかに行っちまうのかと」
「行くところなんてないわよ。幸か不幸か、もう夢を見る年齢も過ぎた。あとは老いぼれて死ぬだけね」
「そんな言い方をするなよ」
「ヴォースだってしょっちゅう、言うじゃないの」
肩をすくめてティエはタイオスの腹を小突いた。
「そろそろ限界だ、もう引退だ、平和な村で穏やかに年を取って死ぬんだ、って」
「あー、まあ、そうだな」
彼は頭をかいた。
「だがまだ、先だろう」
「あら」
「もう五年……いや、七年か八年くらい」
タイオスは指を折ったり開いたりした。
「若いのに触発されてな、潔いことが言えなくなっちまったんだ」
まだまだ現役。
引退には、まだ早い。
自身の剣に思ったことを今度は自分自身に思った。
「諦めが悪くなったってところか」
自嘲気味には彼は言った。
「あら」
ティエはまた言った。
「諦めが悪いのも、いいじゃない?」
「そうか?」
戦士は片眉を上げた。
「そうよ」
彼女はうなずいた。
「どうせ、あなたは引退なんて決意できないわ。引退する、する、って言っては時期を見極められないまま、いずれ足をもつれさせて転んで斬られるのが落ちなんだから」
ティエは肩をすくめた。
「どうせなら諦め悪く、あがいてみたら」
言われてタイオスは苦笑した。
「ああ、それもいいかもな」
次にはうなずいて、タイオスはティエの腰を抱いた。
「運ぶ荷物でもあるか? 手伝うぞ。それから、一緒に風呂に行って飯を食って……そのまま今夜、いいだろ」
「嫌だ」
「『嫌だ』?」
タイオスは渋面を作った。
「違うわよ、そんなまともな
照れちゃった、とティエは笑った。
「大丈夫よ、こんなおばさんに予約なんてないもの」
「俺もおじさんだからな。お前がいい」
「そうね。途中で寝ちゃっても、私は文句を言わないものね」
「馬鹿野郎。寝たりするか」
「前歴があるじゃない、前歴が」
「一度だけだろうが」
「大冒険だったんでしょう? いいのよ、ただ眠るだけでも」
「さぼろうとするな。嫌ならはっきり言え」
「嫌じゃないって言っているでしょう。気遣っているんじゃないの」
本気かごまかしか、ティエはそう言ったが、タイオスは首を振って彼女の頬を撫でた。
「お前を抱くと、コミンに帰ってきた気分になれるんだよ」
彼が言えば、少しの間、沈黙が降りた。
「それじゃ」
女は戦士の胸に頭をもたせかけた。
「今日は香を焚いて、蝋燭もたくさん灯して、いい雰囲気を作りましょうか」
「何でもいいが」
いささか困惑してタイオスが言えば、ティエは彼を見上げて顔をしかめた。
「冷淡な返事ねえ、浪漫に浪漫で返したのに」
「返されるようなことは言ってないが」
彼女は何を言っているのかと、戦士は首をひねった。
「そう?」
ティエはタイオスを離れ、荷馬車の荷を指した。うなずいてタイオスはそれを取り、自身の荷と合わせて器用に持った。
「――お帰りなさい、あなた」
「うん?」
「何でもない」
女はひらひらと手を振って、あっち、と運び先を男に指示した。
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