第2章

01 苛立ち

 夜は更けようとしていた。

 ルー=フィンは空を見上げる。夕刻、わずかにぱらついた雨はもうすっかり上がっており、まばらな雲の間に細い月の女神ヴィリア・ルーの姿が見えた。

 幸いなことに、町びとたちは彼らに石つぶてを投げつけてこなかった。

 と言うのも、町の全てが王子に与している訳ではないからだ。神官の家族や友人たちは、王家を貶めこそしないものの、息子や父や友を守ろうと暴力沙汰に反対した。それは民たちの間に溝を生むことになり、彼らは一丸となることができなかったのだ。

 誰にでも言い分がある。

 タイオスに言わせれば、人間の数だけ正義があるということだ。

 戦士を思い出したルー=フィンは、片手で拳を作った。

(あれがニーヴィスよりも強いとは思えない)

(次にまみえれば必ず、破ってやる)

 恨むと言うほどではない。腹が立つと言うのとも、少し違った。

 言うなればそれは、「俺を馬鹿にしやがって」「目にもの見せてやる」というような、彼が抑えてきた若者らしい憤りだ。

 自分に自信を持ち、それに相応しいだけの剣術を身に着けているルー=フィンは、自分が確実に勝てるタイオスが彼を子供扱いしたことに、決して理性的ではない反応をしていた。

 かっとなって決闘を申し込むということこそなかったが、それは彼に使命があったからだ。彼はヨアフォードの命に従い、ハルディールの殺害を優先しなければならない。

 もちろん、両親の復讐という気持ちもある。ハルディールが彼の親を殺したのではないが、そうさせたラウディールの息子だ。

(ハルディールを殺せば、タイオスはその仇を取ろうと私の前に立つだろう)

 初めの頃の印象では、彼がそのように義理堅い戦士だとはとても思えず、雇い主がいなくなればさっさと手を引くだろうと思えた。

 だがあれは演技であったことが判っている。そして、あの頃以上に王子に肩入れしているタイオスであれば、そのまま逃げ去ることはしないはずだ。

 そのときには必ず。

 銀髪の剣士は緑色の瞳に決意があったが、その心には期待、願望のようなものもあった。

 ハルディールを殺し、タイオスを殺す。そうすればきっと、この苛立ちは収まるだろうと。

「ルー=フィン様」

 呼びかけられて彼は振り向いた。

「見張りの類が、誰ひとりいません」

 そう報告してきたのは僧兵団長ログトであった。

「いない?」

「ええ。おそらく、人数が足りないのでしょう」

 ログトはそう判定した。

「王子に寝返った者たちは王子を殺さないと決めたのでしょうが、われわれと刃を合わせたいとは思っていない。積極的に戦う意志がないのです。これは、隙だ」

「罠、かもしれないが」

 慎重にルー=フィンは考えた。

「大した罠も張れまい。私が行ってこよう」

「は?」

「私が行く。この場でしばらく待機をするように」

「……は?」

「十ティム……いや、二十分経っても私が戻らなければ突入だ」

 彼がそう告げたのは、王家の館まであと十数ラクトという路地裏にてであった。

「お、お待ちください」

 ログトは慌てた。

「何のために、これだけの人数でやってきたのですか?」

 ヨアフォードの指示を受けてルー=フィンが率いてきたのは、雇いの僧兵三十名とシリンドル生まれの僧兵十名ほどだった。

 大国であれば小隊と言うのがせいぜいの人数であるが、ここはシリンドルである。剣を持った四十名は、大軍同然だった。

「だいたい、ルー=フィン様がそのような真似をされる必要は」

「私以外の者がレヴシー・トリッケンと剣を合わせれば、最も軽傷の者でも利き腕をなくすだろう。私だけの方がいい」

 他人を使うより自分で動く方がいい、という思いが若者の内にあった。王となればそうはいかないのだろう。しかしいまはまだ、彼はそのようなものではない。

「いけません、ルー=フィン様は大事な方なのですから」

 ログトは必死で説得した。

「だが、騎士を相手取れるのは私だけだ。だからこそ、私はここにいる」

「確かにそうでしょう。ですが、だからこそ、ほかの者は我らにお任せを。無駄な血を流さずに済むことも有り得ます」

 降伏を勧告しても王子たちは応じないだろうが、僧兵らは剣を捨てる可能性があると、僧兵団長はそう言った。

 ルー=フィンとしては、単に、ひとりでやりたかった。

 他者を使うなど、わずらわしい。若い剣士はそう感じていた。

 そんなことでは上に立てない、と言ったのはヨアティアだった。神殿長の息子を軽蔑することは、その言葉を軽んじることにつながらず、もっともな台詞だとは思っていた。

 だが、いまはまだ。

 ログトは、駄目だと言った。ルー=フィンは、それを無視してもかまわない。

 しかし――。

(慣れねばならぬ、ことか)

 若者はそっと息を吐いた。

「いいだろう。だが、騎士には手を出すな。危険だ」

「はっ」

「それから、ハルディールは必ず私が殺る」

 ここは譲ることができなかった。

「お前たちから手柄を奪おうと言うのではない。しかし、王子は私が殺らねばならないのだ。これは」

 少し躊躇ってから、ルー=フィンは続けた。

「ヨアフォード様のお考えでもある」

 実際のところ、神殿長はそうは言っていない。ただ、新王が前王の息子を手にかけて幕引きをするというのは、よい象徴だ。そこはヨアフォードも同意するはずだった。

「いいな」

「……はっ」

 ログトは礼をした。ルー=フィンはうなずく。

 ほかの誰に任すのでもない、自らの手でハルディールを屠ることによって、彼は自分なりのけじめをつけるつもりだった。

 そうして、生まれ変わるのだ。

 彼自身も。シリンドルも。

(全て、よい方向に行く)

 ルー=フィンはそう信じて、ただ前を見た。

 夜闇に包まれた王家の館は、しんとしていた。

 彼らが見張りを置いていないことは意外だった。たとえ王子がぼんくらで、少年騎士の経験が浅かったとしても、騎士団長がそんな油断を許すとは。

(だが、ログトの言ったように人数は少ない)

(王子の周りだけを固めているという可能性もあるな)

 城と言うには貧相であっても、十二分に広い館である。兵を分散させることを避けたのかもしれないとルー=フィンは考えた。

(そうであれば少し厄介か)

(だが、切り開けば、よい)

「火をかけると言ったことは、撤回する」

 彼は考え直した。ヨアフォードはそれを提案のひとつとして言ってきたが、命令してきた訳ではない。

「逃げ出してきた者を斬るなどは、名誉に反する行為だ。逆らう者を斬る。この方が、判りやすくてよい」

「は」

 ログトは少し安心したようだった。彼もまた、同じように感じていたのかもしれなかった。

 ルー=フィンは、剣技こそ磨いてきても、作戦を立てるというようなことは得意ではなかった。将として部下の心情に気を遣うなどということも、考えたことはあまりなかった。

 ただ自分の剣に絶対の自信を持っており、たとえ取り囲まれても後れを取るようなことはないと思っていた。

 彼は将ではなく、やはり剣士だった。

 シリンドルの神殿長に育てられた才能ある若者は、敗北も挫折も知らずにきた。剣さえ振るえば、彼に怖いものはなかった。

 姑息なことを考えるより剣を合わせることに決めると、彼の足取りは軽くなった。

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