12 夢
ふっと目を覚ませば、見慣れた人影があった。
彼は手を伸ばして、それに触れる。
と、ぱしん、と手を叩かれた。
「朝っぱらから、いやらしい」
容赦のない言葉がきた。彼は苦笑する。
「俺とお前の間で、今更いやらしいも何もないだろうが」
「回数を覚えていないほど床を重ねたことと、朝から人のお尻に触ることは別よ、ヴォース」
きっぱりと言う女は、ティエだ。タイオスは目を細めて彼女を見た。
「何だか、お前とはずいぶんと久しぶりだという気がする」
「そうね、久しぶりだわ」
三十代後半ほどの小柄な踊り子はうなずいた。
「今度はどこに行ってたの?」
「うん?」
戦士は起き上がると伸びをした。
「どこ……どこだったかな」
「いやだ」
ティエは笑った。
「忘れたの?」
「馬鹿な。忘れるもんか。……ええと」
彼はうなって頭をかきむしった。
「忘れるはずが、ないんだが」
「やあね、ヴォース」
ティエはくすくすと笑った。
「酷く頭を殴られでもした?」
「そんなことは。ないと、思うぞ」
自分の口から出る返答が曖昧だ。ティエは笑うが、タイオスは不安になった。
何かが引っかかっている。のどに刺さった小骨のよう。それは確かにそこにあるのに、手が届かない。
「何よ、ずいぶん情けない顔して」
ティエは手早く長い髪を結い上げると、タイオスの髪に口づけた。
「おまじない」
「あん?」
「これ以上、中身が悪くなりませんように」
「……おい」
「ついでに、外見も頼りなくなりませんように」
軽く髪を引っ張ってティエは笑う。
「俺は禿げたりしない」
何の根拠もなくタイオスは言い切った。
「クソ眼鏡の仲間になんざなりたく――」
そこでタイオスは口をつぐんだ。
「誰のこと?」
女はもっともな問いを発する。
「誰……だったかな」
彼の腹を立てさせる誰か。よく知っている――などと言いたくはないものの、知っている。
「判らんが、思い出せんってことは大した相手じゃないんだろう」
そういうことにして戦士は手を振り、彼の頭に触れたままだったティエの手を取ると引き寄せて頬に口づけを返す。
「今日はどっかの舞台に立つのか?」
「ええ」
うなずくとティエは部屋の端を指した。タイオスは目を見開く。そこには、タイオスですら運ぶのに気合いが要りそうなほど大きな籐箱がいくつも重ねられていた。
「これを持っていくの」
「おいおい。引っ越す訳でもあるまいし」
彼は苦笑した。
「お別れよ、ヴォース」
言葉はそう続き、タイオスの笑みは固まる。
「何だって?」
「お別れよ。どうして助けてくれなかったの?」
「何、だって?」
中年戦士は馬鹿のように繰り返すしかなかった。
「幾たびも肌を重ねたと言うのに、所詮あなたにとって私はそれだけのものだった。私が死んだことなんか、どうでもいいんでしょう」
「ちょっと待て。何を言ってるんだ」
タイオスは混乱した。
何だか知っている話のような、同時に、大きな誤りがあるような。
「死んだだって? 生きてるじゃないか」
「何の話だか、判らないと言うの?」
「判るもんか。俺は……」
誰かが死んだ。ティエではない。だが、誰かが。
脳裏を何かがかすめる。
『――だ』
『早く捕らえろ』
タイオスは頭を振った。
嫌な出来事があったような気がする。この〈紅鈴館〉で。
(……この?)
戦士ははたと、動きをとめた。
(俺は、〈紅鈴館〉にいるのか?)
そうではないような気がする。これは――夢だ。
「ティエ」
彼は女を呼んだ。よく知る女は振り返り、なあにと答えた。
「またお前を抱きたいなあ」
「何言ってるの」
呆れた顔で女は言った。
「いつでも、ここにくればいいじゃないの」
彼女は自分が死んだような話をしたことなどなかった様子で笑った。
「そうだな」
男はうなずいた。
「必ず、帰る。待っていろ」
「あら、そんなことを言うなんて、珍しい」
ティエは片眉を上げた。
「いつもなら、私はあなたの女じゃないのよ、とでも答えるところだけど」
再び彼女は彼に近寄ると、両頬を手で挟んで軽く口づけた。
「帰れるかどうか、不安があるからそんなことを言うのね。いいわ、今日は特別」
それからティエは、タイオスの耳元で囁いた。
「――待っているから」
「おう」
タイオスは笑みを浮かべた。
「待ってろ。とびきりの土産話をしてやる」
彼はよく知る身体を抱き締めて、それから瞳を閉じた。
『〈白鷲〉だ』
『シリンディンの――』
(俺はそんなものじゃない)
(だが)
(呑気に寝ていられる場合でも、ないんだ)
(ハル。放っておけない)
ティエが消えた。見慣れた〈紅鈴館〉の一室が消えた。視界が暗くなる。
記憶は蘇った。緊張感もまた。
身体が酷く重い。夢を見ていたんだと判っているのに、調子に乗って深酒をしたあとのように、ろくに身体を動かすことができない。目を開けることすら。
(くそう……魔術のせいか)
戦士は力を振り絞ったが、彼の手はその意志と裏腹に、のろのろとわずか数ファイン動いただけだった。
そのまま必死で、タイオスは手を動かした。寝台の角に触れたと判ると、力を込める。いや、込めようとしたが、入らない。彼は罵りの言葉を発しようとしたが、とてつもなく寝ぼけているときのように、舌も巧く動かせなかった。
身体が重い。頭が痛い。
(クソ)
仕方なく彼は心のなかで、イズランに向けて思い切り罵倒文句を並べ立てた。
(どうすりゃいい、どうすりゃ)
魔術師は、ひと晩も眠れば片がつくというようなことを言っていた。つまり、今宵の内に何かある。おそらくはルー=フィンが館を襲撃して、ハルディールの首を取るつもりでいると。
彼には、義理などない。ここで少年王子が殺され、シリンドルに新たな王が誕生して圧政が敷かれようと、彼には関係がない。
ヨアティアから金は得ているし、このまま魔術に逆らわず眠りの神パイ・ザレンに身を任せ、翌朝とっとと逃げ出したって、ヨアフォードも彼など追おうとしないだろう。
だがそうもいかない。
イズランは彼を殺すつもりではなかったようだが、こんなところを王家に敵対する僧兵に見つかれば、刺し貫かれて終わりだ。
そんな最期は迎えたくない。コミンの町に帰って、ティエのところへ帰って、いずれは引退して、平穏な暮らしを。
(それにやっぱり)
(ハルを見殺しにすれば、寝覚めが悪い)
(くそう)
(神様に祈るなんて柄じゃないが)
〈峠〉の神シリンディン。
彼の脳裏には、戦士に慕わしいラ・ザインではなく、ほんのひと月前まで聞いたこともなかった神の名が思い浮かんだ。
(頼むぜ、神様。俺じゃない、ハルのためだ。あんたの大事な王家の王子様が危ないんだ。神様は直接手出しなんかしないんだろうが……その代わり)
(俺を駒にしろよ)
歯を食いしばって力を出そうとしながら中年戦士がそんなことを考えた、そのときだった。
ばさばさばさ、と何か音がした。
(――羽音?)
タイオスは振り返った。
そこは、室内だ。鳥など飛んでいるはずもなく、小窓から迷い込んできたということもない。
「……ん?」
彼は目をしばたたいた。
振り返ることができたのだ。容易に。
「――解けた」
タイオスは口をぽかんと開けた。手足が動く。身体が動く。頭はまだ少し重いが、痛みは消えた。
「っしゃ」
戦士は立ち上がると両手両脚を大きく動かし、強張った身体をほぐした。
「ありがとよ、神様」
本当に〈峠〉の神が彼の言葉を聞いたものか、神官ではないタイオスには判らない。ただ、そう考えてみるのもいいか、と思った。
ふと、何かが気になった。
隠しに手を入れ、なかにある小さなものを取り出す。
彼は再び、まばたきをした。
ヨアティアの腰からクインダンが偶然切り落とし、見つけた彼が偶然拾い上げた、それは大理石製の、〈白鷲〉の護符。ハルディールに渡そうと思っていたが、騒動の間に忘れていた。
戦士の目の前で、石はかすかに光ったように見えたが――。
「気のせいだな」
そう決めつけると護符をしまい、タイオスは空き家の外に出た。
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