02 話すことなど、何ひとつない

 部屋は静かだった。

 王女は独り言を口にする癖などなかったし、半月を越す軟禁生活の間にそれを育てることもなかったから、話し相手がいなければ部屋が静かなのはごく当たり前のことだった。

 そっと、床板を持ち上げた影があった。

 王家の館、王女の部屋。

 アンエスカは、室内に誰の気配もないことを確認した。

 それから慎重に、確認をする。寝室側には、誰もいない。アンエスカは板をずらすと王女の部屋に上がり、侵入口を判らぬように戻した。

 続く居間への扉は閉ざされている。彼はそちらへと足音を立てぬようにしながら進むと、耳をつけた。やはり声はせず、かすかな足音はひとり分。少女ほどの軽い体重の持ち主だ。

 それでも彼はそっと、右手を細剣にかけながら、聞こえ出した外の騒ぎに合わせるようにして扉を少しだけ開けた。やはり部屋にいるのが少女ひとりと確信したアンエスカは、そこでようやく扉を大きく開け、片手を拳にして胸に当てた。

「王女殿下」

 その声に振り向いて驚いた顔をしたのは娘もだったが――男もだった。

「あ……」

 それは、エルレール・シアル・シリンドルではなかった。

「お前は誰だ」

 アンエスカは厳しく問うた。

「エルレール様は」

「あ……イ、イズラン様、イズラン様!」

 王女ではない娘は叫んだ。すると一トーアと経たずに、彼と娘の間に、黒ローブ姿が現れた。

「何」

 アンエスカはさっと剣の柄に手をかけた。

「これは、シャーリス・アンエスカ殿」

 灰色の髪をした男が、面白そうな声で彼を呼んだ。

「お初にお目にかかります。亡くなったとお聞きしていましたが、ご無事で何より」

 魔術師イズランは、ヨアフォード父子やルー=フィンの前で見せていたのと同じ丁寧さに皮肉を込めて、アンエスカに向かった。

「驚きました。外ばかり警戒していた。まるで魔術師のように、突然現れるとは」

 とても面白い冗談を言ったかのように、イズランは笑った。

「こんなちっぽけな館にも、大国の王城のような隠し通路が?……いえ、お答えいただかなくともけっこう。そのようなことには興味もございませんから」

 さらさらと語るイズランを前に、アンエスカは静かに細剣を抜いた。

「エルレール様はどちらだ」

 誰何することなく、彼はそこを尋ねた。もとより、イズランの黒ローブ姿を見れば、これがハルディールやタイオスの言っていた魔術師であると知れる。

「あなたからお守りするために、余所へ移っていただいた」

 肩をすくめてイズランは答えた。

「外からは在室していると見えるよう、彼女にうろうろしていてもらったのですが。ミキーナ殿、ここは危ないのでお戻りを」

「は、はい」

 目を見開いていた神殿の娘は、慌てたように踵を返した。

「待て!」

 アンエスカは制止したが、彼女が彼の命令を聞く理由はなかった。

「ミキーナ殿をとどめても何にもなりませんよ、アンエスカ殿。彼女は何も知りませんし、私にとっては、人質にもならない」

 少し笑って、魔術師は首を振った。

「ああ、そうだ、ミキーナ殿」

 そこでイズランは娘に声をかけた。ミキーナは足をとめ、振り返る。

「やはり、話が終わるまでそちらで待っていていただきたい」

「え?」

 ミキーナは、意味が判らないという顔をした。

「ここで、待つのですか?」

「ええ」

 イズランはぱちんと指を弾いた。その途端、ミキーナは目眩を起こしたようにくたくたとその場に崩れ落ちた。

「何を……」

 アンエスカは、それが魔術であることこそ判ったが、魔術師が何のために娘を追い出さず、この部屋で眠らせるような真似をしたものか、そこは判らなかった。

「ここまで入られたのは意外でしたが、逆に都合がよくもある」

 イズランは娘から男に視線を戻した。

「私があなたと対峙していることは、ミキーナしか知らないのですから。彼女の記憶だけ作り替えてしまえばよい」

 それまで眠っていていただく、とイズランは呟いた。

「何を言うのか知らぬが、魔術師よ」

 アンエスカは剣を魔術師に向けた。

「お前は私の問いにきちんと答えていないようだ」

 彼は青い瞳で、相手を見据えた。

「もう一度言う。エルレール様はどちらだ」

「無駄な真似を」

 イズランは首を振ると片手を奇妙な形に動かした。と、アンエスカの細剣は普段の何倍も重みを増した。その結果、彼の意志とは裏腹に、彼は剣を下ろした形になる。

「手妻か」

 男はうなった。

「何とでも」

 魔術師は口の端を上げた。

「正面から剣で魔術に立ち向かうことの愚かしさ、たとえばタイオス辺りはよく知っていましょうが、近隣数都市に渡って魔術師協会もないようなこの国では、難しいのでしょうか」

「何とでも」

 アンエスカは同じように返し、剣を持ち上げるべきか迷った。

 重いだけで、振り上げることは不可能ではなかった。

 だが彼は、敢えてそうすることの意味を見いだせなかった。やってみせれば意地を見せることにはなるだろうが、それだけだ。

 もっと重くされるかもしれない。いや、現実に剣が重みを増したのではない、と彼は推測した。そう感じさせられているだけだ。そのような均衡の取れない状態で斬りかかってみたところで、僧兵ひとりまともに殺せまい。ましてや、魔術師。

「では、話は何だ」

 アンエスカは剣の重さに逆らうことをやめ、無駄な力を抜いて、イズランを見た。

「わざわざ私をおびき出して、殺そうと言うのではないようだな。そうであれば、問答無用でやっているはず」

「さすが、と言いましょうか。理解がお早い」

 イズランは唇で笑みを形作ったが、夜色の瞳は笑っているように見えなかった。

「では単刀直入に。アンエスカ殿、ヨアフォード殿があなたから聞き出そうと考えている〈峠〉の秘密を教えていただきたい」

 この台詞にアンエスカは目をしばたたいた。

「いきなり、何を言い出すかと思えば」

 彼は唇を歪めた。

「秘密だと?〈峠〉に秘密があるのか? 初耳だ」

「ごまかしはけっこう」

 イズランは相手にしなかった。

「王子の居場所もあなた方の人数も協力者も、〈白鷲〉とやらも私にはどうでもいいんです。依頼されたことだけをこなすつもりでいましたが、どうやら〈峠〉の神殿には神だけではない、ほかのものも眠っていると見えますね。それが気になりまして」

「どんな想像、いや、妄想をしているものか知らぬが」

 アンエスカは鼻を鳴らした。

「私からお前に話すことなど、何ひとつない。王女殿下の居場所を語らぬのであれば、もうお前にもここにも用はない」

「私の方にはあるんです」

 イズランは口の端を引っ張った。

「外は騒ぎですが、せっかくここまできていただいたことですし、どうかゆっくりお話を」

 灰色の髪の男が手を振った。剣を持つ男は、自らの足が動かぬことに気づいた。

「話すことなど、無い」

 アンエスカは繰り返したが、イズランは薄い笑みを浮かべて首を振った。

 館の外では怒号や悲鳴が波のように近づいたり遠ざかったりしていたが、それはまるで彼らの耳に届いていないかのようだった。

 部屋のなかには鈍い静寂と、それから緊張感。

「そのように我を張られても」

 魔術師はすうっと空中に指を走らせた。その手に、樫の木杖が現れる。

「すぐに、話をする気になりますよ」

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