05 金目当ての下賤な男

 扉を叩く音がどんなに丁重なものであっても、エルレールは反射的に、身をびくりとさせるようになっていた。

 あのような暴力に怖れをなすなど、彼女の誇りは許さない。しかし、致し方のないことでもある。ニーヴィスとアンエスカが間に合わなければ、彼女はあのまま下世話な男の好きにされた。そうはならなかったからと言って、覚えた恐怖が消え去る訳でもないのだ。

 ニーヴィスの意見にアンエスカが修正を加えて、王女はあのあと、迫真の演技で部屋の扉を叩いた。飛んできた僧兵がその状況に青くなり、すぐさまヨアフォードに報告に行けば、神殿長を名乗る男もまた、かなり早くやってきた。

 ヨアフォードは、下半身を露わにしたままみっともなく気を失っている我が子を目にすると、怒りで顔を赤くした。ちょうどそのときに意識を取り戻したヨアティアは、自分の姿と父の顔色に気づいて、相対するように顔を白くした。

 ヨアティアがどんな言い訳を考えついたとしてもヨアフォードはそれを一言すら発することを許さず、息子の髪を掴んで引っ張り上げると拳で顔を殴った。

『この……馬鹿者が!』

 ヨアフォードは腹の底から叫んだ。これには、エルレールも驚いた。

「痴れ者! 何という、恥知らずなことを!」

 そのときヨアフォードは、怒りの炎を瞳に燃やしていた。見せかけだけではなく、本気で腹を立てていた。一度では済ませず、二度、三度と男は息子を殴りつけ、その暴力を目前にしたエルレールは、彼女が襲われたときと同じほどの恐怖に身をすくませた。

「自分が何をしたか判っているのか! この……」

「もうおやめください、ヨアフォード殿! 死んでしまいますよ!」

 黒いローブを着た魔術師がやってきて彼をとめた。その言葉は大げさではなかった。そのままであったなら本当に、神殿長は実の息子を殴り殺していたかもしれなかった。

 王女は見慣れない暴力に怖れを抱き、見知らぬ魔術師が突然現れたことに驚くこともできなかった。

 怖ろしかった。

 ヨアフォードのそれは息子が彼女を襲ったことに対する怒り、罰であった。だが彼女は、その罰に胸のすくような思いは覚えなかった。

 冷たく彼女の言葉をあしらい続けた男の怒り狂う姿は、むしろ逆に、間違いなくこのヨアフォードが、獣のようなヨアティアの父であることを改めて彼女に知らしめたのだ。

「――申し訳なかった、王女殿下」

 魔術師イズランに制止されたヨアフォードは、そこでいつもの顔を取り戻すと、意外なことにも、彼女に謝罪をした。

「婦人に乱暴を働くなど、神殿長の息子として……いや、人として、あるまじき」

 その台詞だけを聞いたなら、まるで高潔な男だった。

 エルレールは何も返せなかった。

 怖ろしかった。ヨアティアが。ヨアフォードが。

 神殿長はそれから息子に謹慎を命じ、僧兵たちには二度とヨアティアをこの部屋に入れるなと厳命した。

 そうして彼らがいなくなると、エルレールは安堵した。ヨアティアがやってこないという決定にもだが、ヨアフォードが去ったことにも、また。

 だが、その安堵は時間の問題だ。

 騎士たちは王女の命令に従い、ルー=フィンに忠誠を誓うことを約束したと言う。本当かどうかは判らない。いや、嘘ではないかと思う。

 何にせよ、彼らはまだ地下牢からは解放されていない。彼らの婚礼の日に特赦として監禁を解き、その後、公衆の面前でルー=フィンに忠誠を誓わせるという脚本が書かれていた。

 つまり、王女と神殿長の間の約束は果たされるところだ。彼女はルー=フィンとの婚姻書に署名しなければならない。

 あれから二日、ヨアフォードはまだ婚礼の日取りを決めたと告げにきてはいないものの、いつその知らせがやってくるかは判らない。

 やっぱり嫌だ、と言い張ることは可能だが、騎士たちはまだ自由ではない。仮に、彼女が騎士たちを見捨てて約束を破ろうとしても、ヨアフォードだっていつまでも彼女のわがままにつき合わないだろう。

 通常、婚姻書への署名は婚礼式の際に壇上で行うものだ。

 彼らが大事な儀式をどの程度真摯に行うつもりであるかは知る由もないが、その場で王女が署名を拒絶しても、新郎新婦とともに壇上にいる神殿長は、無理矢理にでも少女の手に筆を握らせ、手首を押さえて署名させてしまうだろう。

 抵抗は無駄だ。男の力には、敵わない。

 父子の暴力を思い出して、エルレールはぞっとすると自身を抱いた。

 そうして「神殿長」が婚姻を認めれば、エルレールはルー=フィンの妻。その貞操は銀髪の男のもの、という訳だ。

 気にかかるのは何も自分の操ばかりではない。年若い少女であれば重大な問題だが、彼女はただの年若い少女でもない。

 彼女と「新王」ルー=フィンの間に子供ができたら、それは次なる王位継承者だ。ハルディールに相対する存在ということになる。

 ヨアフォードが決める日取りまでにアンエスカとニーヴィスが囚われの騎士たちを救出できればよいが、アンエスカはまだ表立つまいとしている。そうなれば行動できるのはニーヴィスだけだが、彼には妻がある。もしも見咎められて退役騎士だと判れば、彼の妻が危険な目に遭う。

 もとより、そう、退役騎士なのだ。王家のために命を賭けろなどとは、アンエスカでさえ言えない。

 アンエスカは必ずよいようにすると彼女に誓ったが、いかな彼とてこの状況に何ができるものか。王子はいない、王女は捕虜、騎士たちの手もなしに騎士たちを救出する?

 エルレールは首を振った。

 どれだけよい材料のない局面であっても、嘆いてはいられなかった。エルレールには待つことしかできないが、それでも、望みは決して捨てることなく。

 そんなふうに、シリンドル王女が誇りと怖れの間を行き来しているとき、扉が叩かれたのだ。

 許可の言葉も待たず、その戸は開かれる。

 もっとも、誰か礼儀正しい人物が王女の許可を待ったとしても、彼女は許可を出す気などない。入ってきたければ、勝手に入ってくるしかなかった。

 食事や飲み物を持ってくる僧兵か、さもなくばついにヨアフォードかと少女は振り返った。そこにいたのは、そのどちらでもなかった。

 銀の髪をした若者が、彼女の知らぬ男とふたり、立っていた。

「エルレール殿下」

 ルー=フィンは彼女を呼んで、一応、とばかりに礼をした。

「何の……用」

 少女は身を固くした。

 ひとりでやってきたならともかく、誰であろうと連れがいるのだから、ひと足早く夫の権利を行使しにきた、というようなことはなさそうだった。だがいまの彼女には、「男」というもの全般が怖ろしいと感じるところがある。王家に忠誠を誓っている男たちは別だが。

「ヨアティアが」

 若者が発した名に、少女はびくりとしてしまった。

「王女殿下に非道な真似を働いたとか」

 その口調は苦々しく、同じ仲間だと思われたくはない、という雰囲気が漂っていた。

 エルレールのあずかり知らぬことだが、ルー=フィンは初めて「様」とも「殿」ともつけずにヨアティアを呼んだ。これは、神殿長の息子というだけではもう敬意を抱けぬ、というルー=フィンの思いを表していた。

「私が謝罪をしても何にもならないし、殿下は私の謝罪など聞きたくないだろう。だが、言わせてほしい。心より詫びを」

 若い剣士は言い、王女は少し戸惑った。

「あなたのせいでは、ないわ」

 ようよう、エルレールはそう返した。

「私にとってあなたたちはどちらも『ヨアフォードの手の者』よ。だからと言って、あなたとあの獣を同一視はしない」

 その言葉にルー=フィンは、軽くうなずいた。

 エルレールは奇妙な気持ちを覚えた。

 この男は敵であるはずだ。ヨアフォードに仕え、ハルディールを狙う。

 だが一リア、ほんの一瞬だけ、巫女になる娘は感じた。

 彼らはただ異なる岸にいるだけで、同じものを見ているのではないかと。

「ヨアフォード様は彼に謹慎を命じたが、名誉挽回の機会もお与えになった」

 ルー=フィンが話し出し、エルレールは不可思議な感覚を振り払った。

「彼は、殿下が欲した護衛を息子に用意させることにしたのだ。ヨアティアの権限で殿下を護衛すべき人物を選び出して雇い、彼の責任に置いて、殿下をお守りすることと」

 それが父親による息子への罰であるようだった。

 もしもエルレールに何かあれば、それがヨアティアと何の関わりもない事故であっても、ヨアティアの責任。当人がやるのではなくとも、「騎士のごとく」彼女を守れという指示だ。

「護衛ですって。それは、あなたが?」

「いや」

 ルー=フィンは首を振った。

「この男だ。ヨアティアが雇った。金目当ての下賤な男だが、金を受け取れば仕事はきちんとする」

「褒められたんだかけなされたんだか判らんな」

 ヴォース・タイオスはそこで唇を歪めた。

「正直、また雇ってほしいと言ってくるとは思わなかったが」

 銀髪の若者は黒髪の中年戦士をちらりと眺めた。

「仕方ないだろ。借金の返済と、調子に乗ってやらかした賭け事で、全部だ。もっかい、実入りのいい仕事をもらいたくなったのよ」

 笑ってタイオスは言った。

「指輪は無事だったんでそいつをお返しして、その代わり雇ってくれとやったら、ヨアティア様は受けて下さったとそういう訳だ」

「お前の事情は何でもいい。とにかく、王女殿下の護衛をしていろ。おかしな真似をすれば」

「しない、しない。世の中、若い娘の方がいいとは言うが、限界があらあな。商売女ならともかく、俺から手を出す気になる『若い女』はせいぜい、三十過ぎ」

 手を振って戦士はそんなことを言った。

「俺はタイオス。まあ、よろしく、王女様。どんな挨拶をすればいいのか判らんから、これで失礼。俺に礼儀は期待しないでくれ」

 その言葉にエルレールは少し笑ってしまい、それから、しまったというように表情を引き締めた。

「――いいわ。私に選択権などないんだもの」

 固い声で彼女は言った。

「用はそれだけかしら。なら、出て行って」

 ルー=フィンは少しだけ、彼の妻となるらしい少女を見ていたが、そのあとでくるりと踵を返した。タイオスは迷った風情を見せ、一緒に出て行くタイミングを逃したというように、その場にとどまった。

 若者は戦士を見たが、特に出ろとは言わず、そのまま扉を閉めた。

 沈黙が降りる。

 五トーア、十秒、三十秒。

「……あー。その、な。王女様」

「判っているわ」

 彼女は言った。

「アンエスカから聞いている」

「あ、そう」

 そりゃ話が早い、と戦士は息を吐いた。

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