04 迷子の子供のように
ハルディール王子が目を覚ましたとき、隣の寝台に戦士タイオスの姿はなかった。
寝過ごしたのだろうかと少年は飛び起きたが、窓から外を見れば、まだ
(朝の散歩か、それとも運動にでも行ったんだろうか)
目をこすりながら、彼はそんなことを考える。
ここまでの旅路で、戦士が王子より早く起きることが多いのは判っていた。街道上ではハルディールをひとりにしてはならないと思うのか、目の届くところで素振りやら体操のようなものやらをしていた。
宿を取っても、彼をひとりにして出ていくことは滅多になかったのだが。
(いや)
(僕が気づかなかっただけ、ということも有り得るか)
少年が眠っている間にひと歩きして戻ってきていた、ということも考えられる。いまもそんなところだろうと彼は考え、大きく伸びをして寝台から下りた。
と、そこでハルディールは、枕元の紙片に気づいた。
正直に言って非常に読み難い字の書かれた紙切れは「すぐ戻る。半日ほどそこでじっとしているように」と言っていた。
(何だって?)
ハルディールはぽかんと口を開けた。
(半日なんて、ちっとも「すぐ」じゃないじゃないか)
少年はどうしたものかと額に手を当てた。ここまできて半日待機とは、タイオスは何を考えているのか。
(最大で半日、という意味かもしれないが……朝の内にここを出ないと、シリンドルに入る前に日が暮れてしまう)
カル・ディアルとシリンドルの境界は、ザヘンデン山脈から北東に流れる小川だ。それは間もなく南北に走る街道に行き当たり、それに沿ってアル・フェイルとカル・ディアルの境をも描く。
三国がぶつかる三角地帯となれば、どれだけ重要地点で警備も厳重か――と思いきや、そこは単純に、カル・ディアルとアル・フェイルの、平穏なる長い国境線の一点に過ぎないように扱われている。重要地点どころか辺境というところで、警備の兵なども置かれていない。
要するに、シリンドルなどあってなきがごとし、なのだ。
そのこと自体を父王ラウディールは問題に思っていなかった。ハルディールも同様だ。シリンドルは、近場の街町とこそ交易を持つが、それはカル・ディアルの町が近所の町と交流があるのと同じこと。「国の違い」というのは、地続きで暮らす庶民たちにとってはあまり関係のないことだった。
もし法律や文化が、日常的な会話が成立しないほど違っていればつき合いも難しいだろうが、それほど異なりはしない。戦でも起きない限りは、隣町もシリンドルも、近隣の人間にとっては同じ「ご近所さん」だ。シリンドル側も、同じように考えていた。
長いこと、それで問題は起きなかった。
ごく稀に、大国から犯罪者が国境を越えてくることがあったが、シリンドルが捕縛して帰すこともあれば、他国の町憲兵が協力を求めてくることもあった。これがカル・ディアルとアル・フェイルの間であれば簡単にはいかない話でも、シリンドルでは簡単だった。
大国はシリンドルのことを気にしていない。一国としての敬意は払うが、それだけだ。シリンドルもまた同様だった。
それが、彼らの大前提だった。
そのおかげで、と言おうか、国境を抜けるのは簡単だった。アル・フェイル側との境には何もなく、カル・ディアル側との橋の近くにある掘っ立て小屋には、シリンドルの人間しかいないからだ。それも境を越える者を調査する目的ではなく、川や橋の様子を見るために立っている。
少なくとも、ハルディールが北西へ出るときには簡単だった。しかしいまは、どうなのか。
(もしかしたら)
と王子は、そこでふと気づく。
(タイオスは境界の様子でも見に行ったのか)
のこのこと出向いて、そこにいるのが僧兵だったりしたら、その場で戦闘だ。そうではなく、循環任務の自警団――軍隊などはないから、ごく普通の、町の若者だ――がこれまで通り立っているのだとしても、ヨアフォードに王子の帰還を密告することがあるかもしれない。
ハルディールとしては、そんなことは考えたくなかった。民は、王家の味方だと思いたかった。
しかし現実は判らない。脅されたり、金で買われたりすることも、あるやも。
厳しい試験を要する騎士を望む若者は減り、誓いの言葉と誓いの腕輪だけで任に就ける僧兵に人数が集まった。そのことを忘れる訳にはいかない。
(厳しく、現実を見据えなければ)
王子は故郷の方角に目をやった。
懐かしいシリンドルは、もうすぐそこだ。
(さあ、ハルディール・イアス・シリンドル。帰ってきたぞ)
(お前の、為すべきことは何だ?)
彼は自身に問いかけた。
ただ「帰る」だけでは意味がない。帰って、何をするのか。
もちろん、父と母の仇を討つ。それから、彼が成人するまでの間、摂政を立てる。
ここに細かい決まりごとはないが、これまでの事例では、大臣や神殿長が話し合って摂政を指名していた。
だが無論、このたびはそれに倣わない。大臣は殺され、神殿長は反逆者。新たに神殿長を指名し、その人物と相談をして、決める必要があるだろう。
(――シリンドレン家の血筋を探さなければいけない)
(血縁だからとヨアフォードに与することなく、彼をただの殺人者と考える人物を)
考えること、決めることはたくさんある。ハルディールが想像できないような細かいこともたくさんあるはずだった。
それは、まだ先だ。
まずは帰郷をし、できれば捕縛、裁きを経て、無理ならば神殿に忍び込んででも、ヨアフォードを処刑する。
きゅ、と胃の辺りが痛くなった。
(神殿に忍び込んで)
(処刑――殺害、か)
いかに道を踏み外したとは言え、神殿長は神殿長だ。神の代弁者。
(父上を弑しても天罰を受けなかった男)
(彼を神殿で殺すことは、神の怒りに触れるだろうか?)
そんなはずはない、と思う。だが同時に、畏れも覚える。
〈峠〉の神はシリンドルの民を罰しない。だからこそ、ヨアフォードにも天の雷は落ちていない。
しかし、それならばハルディールも大丈夫だ、と言うのは、少し違う気がした。
神が王子を罰すると思うのではない。罰されることはないから神をも畏れぬ行為をやろう、というのは傲岸不遜であるように感じるのだ。
(まるで神を試すかのよう)
(――いや、考えるな)
(たとえ〈峠〉の神がお怒りになっても、僕にはやらねばならないことがある)
心は決まっていたが、怖れは残っていた。
タイオスやアンエスカがいれば、その根拠がどうであろうと、彼らは「大丈夫」と言ってハルディールを励ますだろう。しかしこのとき、少年は独りだった。
彼はあとからあとから湧き出る不安を抑え、まるで迷子の子供のように、頼れる戦士の帰還を待つほかなかった。
一方、そのタイオスは、夜明け前に宿を出ていた。
ハルディールの考えとは異なり、彼は国境に出向いてはいなかった。
その代わり、殴り書きをした紙片を片手に、戦士は
とある看板を見つけると、彼は紙片が教える名称と同じであることを確認し、明け方であろうと遠慮なくその扉を叩いた。
ほどなく迷惑そうな顔をした店主が夜着のままで姿を見せ、いったい何ごとかともっともな問いを発した。
「何ごとも何も、ここにくるように言われたんだよ」
と、タイオスは肩をすくめた。
「早く伝えてくれ。お待ちかねの、貴重品のお届けに上がりました、とね」
そう言って彼は半ば無理矢理店内に入り込み、そうして、夜は明けた。
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