第2章

01 神が守ってくださっている

 くしゃん、と大きな音を立てれば、手布が差し出された。

病の精霊フォイルに憑かれたのですか?」

「さあ、どうだろうね」

 男は慎み深く手布の使用を断ったが、結局袖口で鼻を拭いた。ハルディールは苦笑する。

「アンエスカが見れば、それはそれは顔をしかめますよ、タイオス」

「しわが深くなるまでしかめてりゃいい」

 戦士は王子に返すと、もはや癖であるかのようにアンエスカを罵りかけたが、こほんと咳払いをした。

「まあ、あの野郎のクソ度胸にだけは、見事と言ってやらなくちゃならんな」

 渋々と彼は言った。

「俺に殺意があると、奴はそう考えたはずなんだ。ひざまずいて謝れよ、ってな台詞は本気だったんだし」

 タイオスは本気でアンエスカを脅し、ごめんなさいと言わせたらすっきりしたところで――手を貸すと言ってやるつもりだった。

 だというのにアンエスカは謝罪をはねつけ、タイオスは負けを悟って、戦士を見張ろうと部屋に入ってきた僧兵をすぐさま斬った。僧兵は、強靱な戦士の一撃に、おそらくは何が起きたかも判らぬままで絶命した。

 あの部屋に置いた遺体は、その僧兵のものだ。せっかくだからこれをアンエスカに仕立て上げてしまおうと考えたのは戦士だったが、それは戦場に生きる男の乱暴な考えだ。ひと目見れば当然、ハルディールはもとよりキルヴンだって、それがアンエスカではないと気づく。

 顔を潰す手もあったが、不自然だし、時間もなかった。服装を替える手間もかけられない。

 そこで王子の教育係は、布を遺体にかけ、眼鏡を血に濡らしてその上に置いた。ハルディールは彼の眼鏡が「偽装のしるし」であると理解するはずだと、そう踏んだ。

 王子殿下は見事に教育係の意図を汲み、シャーリス・アンエスカが死んだものとして、遺体を処理させた。

 もっとも王子は、キルヴン伯爵にだけは、一夜明けてから本当のことを話した。

 タイオスが、ヨアティアとではなく、アンエスカと共謀した――ということも含めて。

「それにしても、あいつが俺に報酬を支払ったというのは正直、驚いた」

「どうしてですか」

 ハルディールは笑った。

「彼はキルヴン閣下に相談までしたと言っていましたよ」

 アンエスカは本当に「相場に見合う報酬」を用意してタイオス宛てに託していたのだ。しかし「『押しかけ護衛』なんてやらかすごろつきに金をやることはない」と思った護衛兵がちょろまかした、というのが真相。

 最初はアンエスカが出鱈目を言っているのではと思ったタイオスだったが、キルヴンは確かに、彼から「護衛戦士」の報酬について相談を受けたと言った。

 考えてみれば当然だ。アンエスカにしてみれば、無報酬で彼を放り出してヨアティアに情報を売られてはだったのだ。適切なだけ支払えばタイオスが義理を通すだろうと――そういう人物だろうと見抜かれていた、という訳か。

(実際俺は、無報酬だと思いながらもハルの情報は可能な限り出さなかったんだからな)

(多少なりとももらえてりゃ、俺はおそらくヨアティアの提案をはねつけて……)

(ハルはキルヴン邸から出られないままか、ひとりで無謀な旅に出たか、どちらかになった)

 それを思えば、彼の金を盗んだ男に感謝、まではしない代わり、探し出してぶん殴るのも取り返すのもやめておくことにした。時間がなかったせいもあるが。

「しかし、よく判ったな」

 戦士は感心した。

「俺は正直、捕まるんじゃないかとも思った」

「襲撃者のなかにあなたがいたことは確実だった。アンエスカではない死体と、偽装の眼鏡。なくなった護符。それから、僕は気づいていた」

「何に」

「あなたが――いや」

 王子は首を振り、笑みを浮かべた。

「何でもない」

「言えよ、気持ちが悪いな」

「秘密です」

 笑ったまま、ハルディールは言った。

「念のために言っとくが、俺は気のいいお人好しなんかじゃないんだぞ」

 少年が「あなたは裏切ったりしないと信じていた」とでも言おうとしたのではないかと考えて、タイオスは顔をしかめた。

「忘れるなよ。俺は金を目当てに、お前を危険にさらした」

「そうは言いますけれど、あなたは館の護衛が充分なほどいることを知っていた」

「まあ、知ってたが」

 館から追い出されるとき、護衛戦士がタイオスを牽制するために言ったのだ。酔っ払って文句を言いにきたりはするなよ、正規の軍兵が今夜の内に、全部で十五人は配属されるんだからな、などと。

 それを知っていたからこそ、タイオスはルー=フィンに強行をけしかけたのだ。十五人は少しった数ではないかと思ったが、十人は固いだろうと踏んだ。危険な賭けではあったものの、僧兵の数を減らすのにはよい手だと思った。

「だからって、一歩間違えばお前は死んだ」

 護衛はルー=フィンを防ごうとしたが、成した訳ではなく、結局のところ魔術師が剣士を連れ去ったという話も聞いた。数がいれば大丈夫だろうとの楽観は危うかった訳だ。ハルディールが生きているのは、偶然にすぎない。

「それはこれまで、どの事情でも同じだった」

 ハルディールは祈りの印を切った。

「神が守ってくださっている」

 王子に言わせればそれは偶然ではなく、神の加護だった。〈峠〉の神は、シリンドルの王子を守ったと。

「あー、ハル。それな」

 タイオスは咳払いした。

「傍から見るとちょいと不気味だからやめとけ」

「『それ』? 神に祈ることですか?」

 面白そうにハルディールは尋ねた。

「成程、頭のおかしい子供に見えると。だが、それならそれでいい。狂人ならば誰も関わりたがらない」

「そいつもまた偽装ってか」

 タイオスは苦笑した。

 ――彼らがそんなやり取りをしていたのは、襲撃の夜から二日あと、先に発ったアンエスカがシリンドルにたどり着く半月ほど前のことだった。

 そう、ハルディール王子は、キルヴン伯爵の反対を押し切り、戦士タイオスともう一度契約を結んだ。

 伯爵の部下は有能にも、〈青薔薇の蕾〉亭でだらだらしている彼を素早く見つけ、王子のもとへと連れていった。

 タイオスはハルディールにどう話したものかと悩んでいたが、何のことはない。賢い少年は父親のような年齢の男たちが瞬時に作り上げた計画について、大方の予測をつけていた。

 そこで改めて、ハルディールはタイオスに、シリンドルへの護衛を依頼した。

 少年は悔やんでいた。彼のことを生まれたときから見守ってくれた人物を祝福ひとつせず、死地に赴かせてしまったのかもしれない。

 それから、悩みもした。帰るべきかとどまるべきか。

 彼をここまで連れてきた男が死んだとなれば、ハルディールが身動きを取れなくなっても当然であると、アンエスカがとっさにそうした形を作ったことも判った。キルヴン伯爵の庇護を前面に出し、ヨアティアらを牽制しようと。

 だが迷った。彼が為すべきことは何なのか。悩んだ。とどまることを考えると、胃が気持ち悪くなるようだった。

 アンエスカが彼に望んだことはよく判っていたが、やはり、黙って待ってはいられない。それが王子の出した結論だった。

「認められません」

 キルヴン伯爵は、まず、そう言った。

「殿下のお気持ちは、判ります。しかしアンエスカ殿は私を信じて、殿下を託された。それを無下にすることは断じてできません」

「〈白鷲〉ジュトン殿への親愛のために、他国の不穏な事情に関わってくださる閣下のお心には感謝いたします。ですが僕は、戻ることを決めました」

 きっぱりと少年王子は言った。

「なりません」

 伯爵は首を振った。

「殿下が何と仰ろうと、力ずくでもそれをとめよというアンエスカ殿の――」

「力ずく、ねえ」

 そこでタイオスは肩をすくめた。

「ハルひとりなら、可能だったろうがな。俺が隣にいる以上、そうそう簡単にはいかんよ、伯爵閣下」

「タイオス」

 王子は戦士を見上げ、頼もしいと笑みを浮かべた。

「カル・ディアルの伯爵の館で暴れ回って、お尋ね者になりたか、ないがね。それでも俺は雇われ戦士。雇い主の言葉に従う」

 彼は剣の柄をぽんと叩いた。

「――力ずくでハルをとめようってんなら、俺は応戦するまでだ」

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