03 方法はひとつ
〈ひび割れ落花生〉亭のことを教えてくれたのは、ティエだった。
彼女自身は行ったことがないものの、彼女の客のなかに、その店をよく利用する小悪党がいるのだと言う。
ティエを疑った訳ではないが、何となく〈痩せ猫〉に尋ねてみたこともある。情報屋はしたり顔でうなずいて、なかなか使える場所だよ、などと言っていた。
一見したところ、そこは汚い立ち飲み屋だ。十席もない小さな店で、客はいないか、いても数名。空いているようだと見て戸口をくぐれば、太った髭親父がじろりと睨み、今日はもう仕舞いだと告げてくる。
知っている者だけがそれで追い返されずに金を差し出し、半刻ほど頼むなどと告げて、地下室への鍵を受け取る。
店の奥の広間には何人も護衛戦士がいて、鍵を持たない人間を決して通さない。五つの階段が五つの地下室につながっており、二重の扉が話を外に洩らさない。
そこは違法なものであれ合法なものであれ、密談をしたい人間のための場所だった。
偉そうなことを言ったが、タイオスも話に聞いただけで、利用するのは初めてだ。似たような場所を余所の町で使ったことはあるものの、それはあくまでも付き添い、護衛としてであり、彼は二重の扉の外で待っている役だった。
慣れたふりをするのは、何も見栄ではない。彼が案内役である以上、連れを心配させないのは義務のようなものだ。
憎たらしいアンエスカが不安に思おうと知ったことではないが、ハルディールには大丈夫だと言ってやりたい、これは独り身の彼なりに覚えた父性本能のようなものかもしれなかった。
「酒のひとつも頼めたと思うが」
地下室に入り、ふたつ目の扉を閉めたところで、タイオスはふと気づいた。
「欲しかったか?」
狭い部屋に置かれている汚い卓を挟んで、不安定な古い椅子があった。アンエスカは、王子のために強度を確認してから、ハルディールにそれを引いた。
「いえ、要りません」
ハルディールは座りながら丁寧に答え、アンエスカは答えなかったが、別にタイオスもアンエスカの返事は求めていない。
「まずは」
その代わり、薄い頭髪を持つ男は口火を切った。
「〈白鷲〉の護符を返してもらおう」
「いいとも」
タイオスは気軽に、胸の隠しから
「俺には護符どころか、厄符だね」
「罰当たりめ」
アンエスカは奪うようにして、〈白鷲〉の護符を手に取った。
「ひとつ奇妙に思ってるんだが」
手を離れた護符に安堵しながら、タイオスはあごに手を当てた。
「護符を持っているのが〈白鷲〉だ、という話は間違いか?」
「いえ」
ハルディールは否定した。
「〈白鷲〉も同じものを持っています。護符は、一対なんです」
「成程」
護符を見ていない者に「鷲の柄の刻まれた白い石だ」というだけでは、伝わりにくかろう。護符は、シリンドルに在住している訳ではない〈白鷲〉の、言うなれば身分を照合するための手形なのではないか、とタイオスは判断した。
「ヨアティアの野郎は、〈白鷲〉が伝説だとか二十年前がどうだとか言っていたが、二十年前程度のことが伝説なのか?」
そこもよく判らなかった点である。確かにハルディールのような若い連中には想像もできない遠い昔だろうが、タイオスからすれば通ってきた現実だ。アンエスカもそうだろう。
「いえ」
ハルディールはどう言おうかと迷うように少しうつむいた。
「〈シリンディンの白鷲〉というのは、シリンドル国を救う人物に与えられる称号であり、象徴でもあります。国の存亡の危機になれば〈白鷲〉が現れる、というのはシリンドルの子供なら誰でも聞いて育つ物語であり、二十年前までは、ただの物語と考える者も多かった。ところが」
二十年前、南のラスカルト地方から逃げてきた山賊の群れが、小さなシリンドル国を蹂躙しようとした。そのとき、どこからともなく現れた剣士が〈シリンディンの騎士〉たちとともに連中を退治した。その剣士は、王家の館に眠っていたはずの〈白鷲〉の護符を手にしていたのだと言う。
聞いたタイオスは、いくらか〈
「このような男に大切なしるしを託すなど、いくら危急の際とは言え、誤った選択だったと言わざるを得ませんな、殿下」
伝説の話が終わると、眼鏡の男はじろりとタイオスを睨んで、王子に対して不敬とも思えることを言った。
「好きで託された訳じゃない」
タイオスはむっつりと言った。
「それどころか、おかげでえらい目に遭った。こんなことだと判っていたら、下手な気を使わないでお前の外見、特徴、どこで見かけたか、全てヨアティアの野郎に話すんだった。ちょっとした小遣い程度になったかもしれん」
「お聞きなりましたか!」
アンエスカは片方の拳をぱしんともう片方の掌に打ちつけた。
「思った通り、見たままの男だ。品はなく、思想も信念も正義もなく、金さえ手に入るなら他者の名誉も命もどうでもいいと思っている!」
「それがどうした」
タイオスは鼻を鳴らした。
「他人のために賭ける命なんざない」
戦士が言えば、従者は汚物でも見るように顔をしかめる。
「こんな男に触れられ、しるしも汚れた」
「拭けばいいだろう」
戦士は簡単に言った。
「大して汚れているようには見えないが」
白い石を眺めながら王子が続ければ、従者は首を振った。
「私の言うのは、布で拭いてきれいになる汚れのことではありません。祓い清める必要があります、ということです」
「おい、そこまで言うか!」
「落ち着け、タイオスも、アンエスカも」
彼らの半分も生きていない少年に、男たちは諫められた。
「タイオス。まずは謝罪をしなければならない。僕はあなたに礼をしたかったが、昨日の状態で僕が王子だと言ったところで、あなたは僕を狂人だと考えただろう」
「当然だな」
タイオスはうなずいた。
「だいたい、いまだって、何か証拠を見せられた訳じゃない。お前らがふたりして俺を……騙しても得がなさそうだが、お前らがふたりして狂っているという可能性だって、ない訳じゃない」
「何と、いちいち無礼な男か!」
鳶色の瞳に怒りを燃やして、王子の従者は叫んだ。
「礼儀もへったくれもあるか。俺の立場からすりゃ、そうなんだよ!」
タイオスはアンエスカを睨んだが、またしてもハルディールに何か言われない内に、息を吐いて力を抜いた。
「僕が護符をあなたの腰帯に結わえ付けたのは、あなたがそれを売り払ってもかまわないと考えたからです」
「殿下、何ということを」
思わずといった体でアンエスカは口を出したが、王子の発言の途中であると気づいて謝罪の仕草をすると黙った。
「けれどおそらく、あなたは僕を探そうとするんじゃないかと思った。そうしてくれれば、無事にアンエスカと行き会った僕は、あなたに礼ができた。そういうつもりだったんです」
「なかなかの慧眼だ」
タイオスは肩をすくめた。
「そういう流れにはならなかった訳だが、確かに俺は、護符の件でお前を探したからな」
ヨアティアやルー=フィン、そして殺されたラベリアのこともあって〈痩せ猫〉を雇った、というのが実際の展開だ。
だがハルディールの言う通りでもある。ヨアティアに見つからずともタイオスはいずれ腰の護符を見つけて、あのガキ、何でこんな高価そうなものを――と慌てて少年を探そうとしただろう。しめしめと売り払うほどには、狡くもない。金に困っていれば判らないが、幸か不幸か、昨日はそうではなかった。
「ヨアフォードがヨアティアをここまで送り込んできているとは、思わなかった」
王子は唇を噛みしめた。
「ヨアフォード?」
「ええ。彼はヨアティアの父で――」
「殿下」
アンエスカは、今度は王子の発言をはっきりと遮った。
「ご説明なさる必要はありません」
「判ったよ」
ハルディールは息を吐いた。
「父でも母でも、何でもいい」
タイオスは手を振った。
「それで? 俺はどうやったら、問題なく無関係なただの戦士に戻れる」
「彼らはこの護符のために、あなたを〈白鷲〉だと思い込んでいる」
「俺は、そんなものじゃない」
「もちろん、判っています」
王子は当然のことを言ってうなずいた。
「しかし先ほども言ったように、僕がそう告げたところで彼らは信じない。方法はひとつです」
ほっそりとしたきれいな指を一本立てて、シリンドルの王子は続けた。
「僕と一緒に、本当の〈白鷲〉を探してください」
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