08 〈紅鈴館〉
タイオスは金と剣だけという身軽な姿になって、再び町に出た。剣はなくてもいいのだが、何となく持っていないと落ち着かない。衣服の一部のようになっているのだ。
護符は、何となく上衣の隠しに放り込んだ。
これがどうなろうとタイオスの責任ではないが、意図的に売り払うとか捨てるとかならともかく、うっかりなくすというのは、ちょっとだけ気が引けた。
石鹸と洗い綿を買って風呂に向かい、旅の汚れと嫌な汗を流した。見知らぬ相手と気軽な世間話をすると、先ほどの妙な出来事は夢だったようにも感じる。
しかし、現実だった。着古した上衣の隠しに護符はそのままあったし、背にはルー=フィンの作った破れ目が、あれは本当にあったことだと声高に主張していた。
みっともないのと験が悪いのとで、タイオスは適当な店で服を買って着替え、穴の開いたそれを捨てた。〈人魚の伝説〉亭で飯を食い、〈紅鈴館〉に向かった。
ティエにこの馬鹿げた話をしたい。そう思った。
「あれ、タイオスの旦那。久しぶりだ」
見覚えのある店員が親しげに声をかけてくる。
「久しぶりに見ても、いい男だね」
「よせよ」
タイオスは苦笑した。娼館以外で言われることのない台詞で、得意客への挨拶のようなものだとは承知だが、くすぐったい。少しでも現状に即して「たくましいね」などであればにやりと笑って「そりゃ当然」とでも言うのだが。
「ティエは、空いてるか?」
「ああ、旦那。惜しかった。ついさっき、今夜の指名を受けたところさ」
「そうか」
ならば仕方ない。「俺の女だから俺に回せ」と主張するほど頭が悪くもないつもりだ。タイオスはうなずいて、それならと考えた。
「リーネはどうだい? フランシールも、今日はまだ空いてるよ」
「ラベリアは」
「どうだったかな。表を確かめてこよう」
「無理ならリーネだ」
言いながら銀貨を取り出した。
「了解」
毎度、と店員はそれを受け取り、奥へ確認と部屋の支度に向かった。少しすると、着ている意味がなさそうな、ほとんど裸体の見える透けた衣服を身につけ、その上に薄地のマントを羽織った女が顔を見せた。
「よう、ラベリア」
「ご無沙汰ね、タイオス」
「ちょいと長い仕事だったんだ」
「そうじゃないわ」
ラベリアと呼ばれた、年の頃三十過ぎほどの春女は肩をすくめた。
「呼ぶのはいつもいつも、ティエばかりで」
「あいつぁ友人みたいなもんだからな。話をしにくるのさ。抱きたい女となれば、あんただよ」
これくらいは、社交辞令だ。
「社交辞令ばかりね」
ふん、とラベリアは鼻を鳴らした。
「おいおい、機嫌が悪いな」
タイオスは顔をしかめた。
「俺が嫌だと言うなら、引っ込めよ。ここにくるのは、仏頂面の女を抱くためじゃないんだ」
「商売女だって女なの。少しは心を込めてほしいと思うのよ」
ラベリアはそう言って、しなだれかかった。
「ティエの次でも、呼んでくれて嬉しいわ。――あたしはあんたが好きなのよ、タイオス」
「社交辞令ばかりだな」
にやっとして返せば、女はぱしんと彼の肩を叩いた。
ともあれ、ラベリアは少し拗ねてみせただけのようだった。ティエと違って本職であるが故に、自分ではなく彼女が指名されるのが気に入らないのだ。ティエより若いから、その点でも「自分の方が彼女より受けるはずだ」と考えている。
タイオスが機嫌を取るように彼女を褒め称えてくれば拗ねる路線を続けただろう。だが彼が素早くそれを拒否したので、春女はそれ以上特に媚びも演技もしなかった。
そのまま彼らはひと部屋で、娼館という場所において言うならば何の特色もない、当たり前でごく普通の時間を過ごした。
「タイオス」
行為を終えると、乱れた髪をまとめながら、ラベリアが声を出した。
「うん?」
「もう休むの?」
「帰ってきたばかりで疲れてるんでね」
彼はそう言い訳をした。
二十歳の頃こそひと晩中、ということもあったが最近はきついし、それほどがっつかなくもなった。行為そのものより、眠る傍らに温もりがあるという安心感を求めて女を買うようになっていた。
それに「女なら誰でもいい」という時期もとうに通り越している。ティエならばもう少し楽しむもやぶさかでないが、たとえ若い娘が相手でも、いやむしろ却って、悪いことをしている気分になる。
ティエが彼にはちょうどいい。
「お酒は?」
「いや……ああ、少しもらうか」
ティエに話をするつもりでいたから、酒は控えめにしていた。だが、次の仕事に入るまで、少しくらい寝坊をしてもいい身分だ。タイオスはうなずき、ラベリアがアスト酒を注いでくるのを見守った。
「すごく、よかったわよ」
酒杯を渡しながら、ラベリアは囁いた。
「うん? ああ、そりゃどうも」
「何よ、気のない返事ね」
「世辞を信じる素直さも、喜んでみせる老獪さもないんだよ」
「あら、嘘なんかつかないのに」
ラベリアはタイオスの腹の付近をぱしんと叩いた。よせよとタイオスは苦笑する。春女たちには、世辞も仕事の一環。先程の「いい男」と同じだ。
(ティエは手厳しいがな)
(容赦なく駄目出しもしてくる)
以前に「嫌なことがあった八つ当たりはしないで」と言われたことがある。客にそんなことを言う春女は珍しい。相手を不快にさせれば二度と呼ばれないからだ。普通はラベリアのように男をいい気分にさせるか、何も言わないかである。
「次もまた、私を呼んでね」
〈紅鈴館〉では客の数に関わらず給金が支払われるはずだが、指名されれば賞与もある。それが目的という訳だ。
もっとも、そうして彼女らは稼ぐ。タイオスが剣を振り回して稼ぐのと同じだ。
「なあ、ラベリア」
女が布団に入り込むのを見守りながら、タイオスはふと声をかけた。
「……シリンディン騎士団、って知ってるか」
「何それ」
ラベリアは目をしばたたいた。
「知らないか。そうだよな」
有名な物語でもない。
定番の話は、さまざまな物語師や吟遊詩人、場合によっては芝居師たちが上演する。そうしたものは旅を繰り返す間に何度も見聞きして、タイオスですら覚えて語れそうなほどだ。
だが、シリンディンの騎士の話は、二十年を越す戦士生活のなかで、たった一度聞いただけ。その物語師の創作だと思っていた。
「そういう話を聞いたんだ」
彼は曖昧に言った。
「ふうん」
欠伸を噛み殺しながら女は言った。これこそ「気のない返事」だ。
(ティエならつき合ってくれるがなあ)
つい、比較をしてしまった。
ラベリアはいい女だが、行為が済めばそれで仕事は終わりと考えている。無駄なお喋りが煩わしいときは最高の女と言えるものの、勝手ながら、今夜は物足りなく感じた。
(仕方ない)
(明日、〈痩せ猫〉プルーグでも見つけてもう少し調査を)
(……いやいや)
よく利用する
「おやすみなさい、私の戦士さん」
そう言ってラベリアは彼に口づけた。
「ああ、おやすみ」
ひと晩中せっつかないのも、タイオスが気に入られる理由のひとつだろう。春女たちは好きで抱かれているのではないのだし――なかには、変わり者もいるが――同じ値段で一夜を売るのなら回数は少ない方が楽だ。
もっとも男としては、年を取ったなと少し情けなく思うところもあった。
だが仕方ない。誰だって年を取る。
タイオスはアスト酒の残りをきゅっとあおると、枕もとの棚にそれを置いて瞳を閉じた。ラベリアが寄り添ってくる。
(こうした情を感じさせる部分は、ティエよりもあるんだよな)
(商売人だ、ということになるのかもしれんが)
たまにはラベリアを指名してみるのも悪くはない、などとぼんやり考えながら、タイオスは眠りに落ちていった。
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