09 俺は白鷲なんかじゃない

 夢を見たような気がする。

 誰かが誰かを呼ぶ声がしていた。呼ぶも呼ばれるもタイオスではない。彼は芝居を眺める心持ちで必死な誰かの声を聞いた。

 その声はやがて消え、昼間の子供が姿を見せた。子供は手に白い菱形の護符を握り締め、それをタイオスに差し出した。

 いや、タイオスに差し出したのではない。

 彼はたまたまそこにいたが、それだけだ。

 子供が護符を渡そうとしているのは、客席からそれを眺めているヴォース・タイオスではなく、異なる誰か。

 その場に相手がいるふり。子供は演技をしている。

 観客はまるで、自分が〈白鷲〉だと言われているような錯覚に陥り――。

(……ス)

(タイオス)

「――タイオス!」

 彼を揺する手があった。

 戦士は瞬時に目を覚ます。

 反射的に枕元にあるはずの剣に手を伸ばそうとし、女と部屋に入る前に預けたことを思い出した。心得違いをした客が春女を傷つけることがないように、との決まりごとである。

 がたん、ばたん、と実に派手派手しい音がしていた。仮にも戦士を名乗るタイオスがどうにか目を開けただけだったというのは、疲労と油断と酒が彼の緊張感を根こそぎ緩めていたせいだ。

「どうした」

「判んない。何か騒がしくて目を覚ましたけど……」

 ラベリアは億劫そうに身を起こし、夜着を羽織った。それと同時に、部屋の扉が開かれる。廊下の灯りが差し込んだ。暗い室内との差に、タイオスは目を細める。

「ちょっと、何!? 部屋を間違えるなんて、ママランに知れたら罰金――」

 女は案内の店員か、それとも春女かが誤って彼らの部屋を開けたのだと、そう考えて怒鳴りつけた。

 だが、彼女は自らの勘違いを知る機会のないままで、絶命した。

 部屋に入り込んできた何者かは全く躊躇いを見せることなく、春女を一刀のもとに斬り捨てたのだ。

 首から走る鮮血が、模様のない床敷きに不規則な模様を作った。

「な」

 タイオスは毛布を跳ね上げると飛び降りた。

(剣)

 ない。

(クソったれ!)

 こうした場所で武器を預けるのは常識だ。だがこの瞬間、彼はその常識を思い切り罵った。

 強盗か。稼ぎのいい娼館に盗賊団が目をつけて、強襲してきたのか。しかし、こうした店には専属の護衛がいる。オダスもシレードもいい戦士だ。そうそう、盗賊の突入を許すとは思えない。

 タイオスはそんなことを考えていたが、しかし、彼もまた勘違いをしていた。

「――〈白鷲〉」

「お前」

 タイオスはぎくりとした。

 それは昼間、彼に剣を突きつけた、長めの銀髪をした緑眼の若い剣士だった。

「〈白鷲〉がいたぞ。捕らえろ!」

 剣士が命じると、ほかに剣を持った黒服で禿頭の男がふたり、わさわさと狭い部屋に入ってきた。

「冗談じゃ」

 こちらは丸腰だ。それも、下衣を身につけただけ。上半身は裸のままだ。

 衣服一枚では大した防御にならないが、裸体ではこの上なく無防備な気分になる。

「クソっ、俺は白鷲なんかじゃない!」

 そう叫んだところで、無駄だと判っている。ルー=フィンはヨアティアの命令で動いているのだし、ヨアティアは護符ひとつでタイオスを〈シリンディンの白鷲〉だと思い込んでいる。

 それに、この男は、町なかでの殺しを躊躇わなかった。

 まともじゃない。

 話して、通じるはずがない。

 タイオスは、部屋を見回した。〈紅鈴館〉のみならず、娼館の部屋はたいてい、出入り口はひとつだ。前金制であることが多いが、不埒な客が何かで発生した追加料金を払わずに逃げようとするのを防止するために、窓もないか、あってもはめ殺しだ。

 しかしそれでも、運があった。

 窓があれば、割れる。

「うりゃあ!」

 タイオスは寝台を飛び越えると、左手に護符の入った上衣、右手に燭台を掴んだ。小さな窓の掛け布を剥ぐと、燭台の底で思い切り硝子を打ち破る。窓の割れた大きな音が、狭い裏路地に鳴り渡った。

 幸いにしてこの部屋は比較的上客向けか、かなり大きめの窓だ。くぐるのは不可能ではない。

「逃がすか!」

 ひとり目の男が、剣を振りかざしてきた。振り向いたタイオスはぎりぎりでそれをかわし、懐に入り込んで体当たりをする。均衡を崩して、ひとり目は転んだ。

「待て!」

 ふたり目も飛びかかってこようとした。だが、狭い室内は剣を振り回すには向かない。転んだひとり目に阻まれて、ふたり目の攻撃は遅れた。

 だが、窓の壊れた部分は、タイオスが素早くくぐり抜けるにはまだ小さい。窓にかかずらっていればふたり目に襲われる。戦士は窓から目を離した。

 「捕らえろ」と言うからには殺そうとはしてこない。そう判断したのだが、賭けである。

 それも危険な賭け。文字通り、命がけだ。

 相手は場数を踏んでいない。動きを見れば、それは判る。一方でこちとら、無駄なほど踏んでいる。

 タイオスは、相手が剣をわずかに下げて、確認するように足元を見た隙を逃さなかった。

 戦士は転んだひとり目を蹴りつけると同時に、無茶を承知でふたり目の間合いに入り込んだ。相手の右手首を横から強く握り締めてやれば、男は悲鳴を上げて剣を放す。

「有難うよ!」

 タイオスは落下する前にその剣を受けとめ、下方から斬りつけた。踏み込みが足りず革製の鎧に防がれたが、気迫負けして向こうはよろよろと後退した。

「役に立たない」

 ルー=フィンが舌打ちする。タイオスは振り返らなかった。

 あの若い剣士を相手に、他人の剣で、盾も鎧もなしというのは自殺行為だ。

 タイオスは再び窓に向かい、剣の柄で窓の破れを広げるとそれを捨て、破片や割れ目で傷つくことを無視して単身、外にはい出た。

(おっと)

(二階だったな)

 しかし躊躇っている場合ではない。捻挫くらいは覚悟して、飛び降りるしかない。

「っしゃ!」

 気合いを入れて彼がひさしから跳ぶのと、ルー=フィンが窓から手を伸ばして彼を掴もうとするのは同時だった。

 このときばかりは、裸体が幸いした。服を着ていれば布地を掴まれ、バランスを崩して肩か頭から落下したかもしれない。

 ルー=フィンの手はタイオスに届かず、戦士は固い石畳の上に運よくまっすぐ着地した。足の裏から全身に衝撃が響く。ひねりはしなかったが、緩衝に脚を曲げるタイミングをわずかに誤って、その場にしゃがみ込んだ。

 ぴいい、とかん高い音がした。見上げれば、剣士が指笛を吹いたのだと判った。

「裏だ。回れ!」

「おいおい」

 タイオスは呟いた。

「まだ、手がいるのかよ!?」

 右手からばたばたと足音が聞こえてくる。タイオスは呪いの言葉を吐いて、左へとふらつきながら走り出した。

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