04 コミンの町


 果てのなき広大なる世界、フォアライア。

 世界には三つの大陸が存在した。北西にリル・ウェン大陸、南方にファランシア大陸、そして北東にラスカルト大陸。

 リル・ウェンの北には霧の立ちこめる大森林が行く手を阻み、ファランシアの南には天頂の見えぬ大山脈がそびえ、ラスカルトの東には無限の砂漠が広がり、その先を見ようと冒険に出た者は誰ひとりとして帰ってこなかった。

 世界には果てがなかった。少なくとも人々は、そう信じた。

 三つの大陸は大海で分断され、ほとんど没交渉だった。

 ごく一部の商人や、法の目を逃れる海賊、まだ見ぬ世界を夢見る冒険者たちなどが海を越えることはあるものの、大多数の人間にとって、他大陸というのは空の上の世界と同じくらい、想像し難く縁のない場所だった。

 ラスカルト大陸の北方、マールギアヌ地方でもそれは同じだ。

 南に隣接するラスカルト地方のことだって、ほとんどの人間は知らないのである。

 その境界に位置するザヘンデン山脈は、他大陸の大山脈とは違い、適切な装備と知識があれば越えられるものであったが、わざわざそんな真似をする者は滅多にいなかった。たいていの人間は、自分の住む町とその周辺だけが実在すれば充分だった。どうしても地方間を行き来したければ西端に出て船を使うか山脈を大きく迂回するだろうが、やはりそうする者は稀だ。

 マールギアヌ地方は、それぞれの領土を持つ幾人もの王たちのもと、一部の小競り合いを除いては大きな戦争もなく、平穏な時代を送っていた。

 ヴォース・タイオスが戦士として身を立てたのは、そうした場所だった。

 平和な時代であっても山賊や魔物はあとを絶たない。彼は街から街へと行き来する馬車や隊商を護衛して稼ぎを得る、どこにでもいる護衛戦士のひとりだった。

 力と若さに任せて無茶をやったのは二十代の頃、三十を過ぎれば慎重になり、力を頼みにせずに技術を磨いた。四十を前にすれば、培った経験が彼を熟練の戦士と言わしめ、見た目にもそうしたものに育てた。

 四十を越したいまとなっては、こちらから仕事を持ちかけても断られることはまずない。それどころか、先に雇われていた若手――つまりは経験のない、頼りない戦士の仕事を奪うことすらあった。

 それはタイオスの本意ではなかったが、若い頃には彼もそうした苦い経験をしてきたものだ。

 もう少しすれば、今度は「年寄りの戦士など頼りない」ということになっていくだろう。成長した若手に、居場所を奪われるだろう。

 それは仕方のないことだ。そうして、時は巡っていくのである。

 旅の仕事がなくなっても、どこか小さな村の境界を守ることならばできるだろうと考えていた。根無し草の放浪生活をやめ、腰を落ち着けて、遅ればせながら妻を――できれば美人の若い妻を――得て、静かに生涯を終える。途中で命を落とすことなく引退した戦士の、それはよくある行き先だった。タイオスも、自分の将来をそんなふうに考えていた。

 十代、二十代の頃には、華々しい活躍も夢見た。伝説に出てくるような魔物と剣を戦わせるだとか、物語のように悪い魔法使いが攫った姫君を助け出して英雄と称えられるとか、子供が見るような夢を見た。

 だが夢は夢だ。

 現実として、彼の最高の自慢話は、長さ数ラクトの大蛇を退治したことくらいだ。からみつかれれば危険だが、毒があった訳でもない。

 もっとも、話をするときは尾ひれをつけて、長さ五ラクトで猛毒を持つ蛇だったということにしている。本気にする者もいれば与太話だと見抜く者もいただろうが、酔っ払った戦士が大きな話をする、これもまたよくある話で、眉をひそめられるほどの酷い行為でもない。

 タイオスは、運よく生き延びて長年戦士をやっているだけの、ごく普通の人間だった。悪党ではないが、善人と言うほどでもない。生きるためには狡いこともやったし、山賊相手とは言え、人を殺したこともある。

 「人殺しの経験がある」のはあまり「普通」ではなかったが、それは彼の仕事だったのだ。「職務を全うしながらそこそこ生きている」という意味合いでは、タイオスは間違いなく普通だった。

 飢えた子供に飯をやるのも、それほど大した話ではない。

 タイオスが無視すれば、あと何人目かに通りかかった人物が同じことか、或いはもっと親切をしたかもしれない。それとも逆に、捕まえて酷い目に遭わせたかも。

 起きなかったことは、判らない。だいたい、彼にはどうでもいい。

 あと数日もすれば、タイオスは自分がやったことを忘れてしまったはずだ。

 大きな出費があった訳でもなし、鮮明な記憶に残るほどの美少年であった訳でもなし。

 どこにでもいるような、仕事にあぶれた、薄汚れた子供。

 そうだと思っていた。

「よう、タイオス。まだ生きてたか」

「おかげさんで」

「あら、久しぶりね。〈紅鈴館〉ばかりじゃなくて、たまにはうちも贔屓にしてちょうだい」

「それじゃ近々行こう。いい娘を用意しとけよ」

 街並みを歩き、知った顔と言葉を交わす。

 このコミンの町はカル・ディアル国の首都カル・ディアからケルクで五日弱の距離にある田舎町だ。

 田舎と言っても、「首都に比べれば」であり、見渡す限り畑しかないような町村に比べればかなり栄えていると言えた。

 強固とは言えないが飛び越えることはできない程度の外壁に囲まれ、東西南北に大小それぞれの門を持つ。西と南は大街道に近く、隊商や旅人も毎日のように訪れる。

 だが「大都市」に見られる淡々としたところはない。

 目が合えば知らぬ相手とも挨拶を交わし、助けを求められればお節介なまでに助けることもある、言うなれば「そこそこ栄えたほどよい田舎町」。それがコミンだった。

 タイオスが気に入ったのは、その加減だ。

 故郷の村ほど貧しくもなければ、何かが起きれば翌朝には村人全員がそれを知っているほどのこともない。親しみはあるが、距離もある。取りようによっては中途半端とも言える均衡は、タイオスの気質にぴたりと合ったのだった。

 数日ほどのんびりしよう、とタイオスは考えていた。

 いつもの安宿でいつもの汚い部屋を借りて荷物を置いたら、公衆浴場ウォルスに出向いて汗を流し、宿に戻って仮眠を取る。馴染みの酒場に繰り出して、夜の見張りの心配をせずに酒を飲み、気分が乗れば娼館に行って女を抱く。少し金をはずんで、そのまま朝寝坊をしてもいい。

 仕事上がりの、よくある一日だった。

 もうこれを何百回、それとも何千回繰り返したのか、判りやしない。

(行くとしたら、やはり〈紅鈴館〉かな)

 彼は女のことを考えた。

(若い娘に気を使うより、ティエを抱く方が楽だ)

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