怒らせてはいけない人に対してするギリギリの火遊び

 あの眼を見ただけで恐怖に支配される。

 凄惨な光景がフラッシュバックし、全身がひきつる。

 そんな程度にはトラウマだ、見たくないものの五指に入るそれが目の前に現れた。


 どう声をかけるべきか、どうするべきかという雰囲気が場に立ち込める。

 こんな状態になっていると分かっていれば名を呼んだりはしなかったのだが……どうしたものかと悩んでいると、


「んっ……くゥ……ッ。大丈夫、です、ふふッ……まだ、平気です」


 片手で顔を押さえながらアンジェリーナが私へそう言った。

 そうは言うものの、当然「はいそうですか」とはならない。


 見られるだけで背筋が凍る程度には目が普通のそれではなかった、酔っぱらいの言う「酔ってない」に匹敵するレベルで信用できない言葉だ。それに『まだ平気』とはつまりは「じきダメ」になるということだろう……。そうなれば到底安心できない、またあの頃のアンジェリーナに戻れば目に映るものの何に斬りかかってもおかしくないのだから。


「それがおねーさんの底にあるものなの?」

 なにやら興味あり気にソーサーがアンジェリーナへ問う。


「だから退けって言ったんだ……。今からでも遅くないから――」

「んーんー。ぼくそういうのだいすきだよ」


 アンジェリーナの『ヤバい部分』が垣間見えて尚、いや、それが見えた事により尚一層ソーサーの表情は嬉々としたものになった。


「もう少し下がりましょう」


 アンジェリーナとソーサー間で嫌な睨み合いが行われる中、セシリアが私へそう言う。当事者でないにしろ、セシリアもアンジェリーナの様子を見て危険な香りを察知したようだ。下がりながらセシリアは続けて、

「主治医の見立ては?」


 今のアンジェリーナが私にどう見えるかという意の質問だろう。

 彼女は過去長い年月発狂していた、そして発狂している間は全身に痛みが走っていた。つまりは……。


「負傷により昔の記憶……というか人格に呑まれつつあるのだと思います……」

「やっぱり?」


 口ぶりから察するに答えが分かった上で訊いていたのだな、ああこの人らしい。


「私もそんな予感はしてたのよ。こうなる前に勝負がつくのが理想だったのだけど……やっぱり迷いがあるみたいね」


 セシリアの言う『迷い』とはアンジェリーナの太刀筋のことだろう。

 望まない殺人を強いられていた過去を持つ彼女だ、迷いは素人の私にも見て取れる。

 攻撃を躊躇う気持ちがあるかぎり、ただでさえ素早いソーサーに当てる事は不可能だ。あれだけ斧を振っておいて一発も当たっていない事実がそれを裏付ける。


 迷いが無くなればそれも分からないが、それが意味するのは……。


「いい出会いが重なってうれしいよ。もっとみせてよ、おねーさん!」


 もう何度目になるか分からないが、またソーサーはアンジェリーナへナイフを投げる。

 避けて弾いてを織り交ぜてそれをしのぐアンジェリーナだが、戦いが始まった当初に比べると防ぎきれないナイフの数は増えていた。


 出血がかさんで動きが鈍っているように見える、それに疲労もあるのだろう。

 このまま受けに回っていてはいずれ限界が訪れる。やるなら一気にと、覚悟を決めたのかアンジェリーナの方から初めてソーサーの方へ動き出した。


「あのときのようにはいかないよ!」とソーサー。


 ソーサーの言う『あの時』とは袋小路で投げられたことだろう。あの時はアンジェリーナが怪力を持っていると向こうには知られていなかったが今は違う。同じことをしても結果は違ってくるだろうがどうする気なんだアンジェリーナ。


 二つの斧を片手で持ち、空いた手で体に刺さったナイフを抜いてソーサーへ投げつつ距離を詰めるアンジェリーナだが、投げられたナイフがソーサーに当たることはなかった。しっかりした軌道でナイフが飛んでいるわけでもないし、そうであったとしてもソーサーであれば避けるのは簡単だろう。


 予想した通りアンジェリーナの投げるナイフを当然のようにひらひらと避けるソーサー、それに加えナイフを避けながらでもナイフを投げてくるのだから恐ろしい。


 それに対してアンジェリーナはもはやほとんどナイフを弾きもせず、一直線にソーサーの方へと向かっている。防御を捨てているからかその分スピードは出ているが……それでもソーサーを捕えられる速さではない。引き続き何を狙っているのかと疑問を抱いていると、

「そろそろね」


 セシリアが横でそう言った。

 こういった場合それが何かを訊くのがお決まりだろう。例に漏れずそうすると、

「ソーサーの投げナイフがもうじき無くなるわ」

 と答えが返ってきた。


「何故分かるんですか?」

「数えてたから」


 ……なんとも簡潔な理由だ。

 だがこの人が言うのであればそれでも納得できてしまう。この人ならあの服の中にはナイフを何本仕込めるかを調べていて、それを記憶していても不思議ではない。


 そして実際、ソーサーにアンジェリーナと距離を取ろうとしている素振りはない。どうやら本当に在庫は少ないようだ。


「いい眼だね、おねーさん! アッハハッ! ぼくたちと同じ眼だ!」

「クッ……ふ、ッハハハハ! なら君もろくでもないねッッ!」


 狂気めいた笑い声を発しながら子供と少女が斬り合いを始めだした。今に始まったことではないがまったく異常な光景だよな……。


 ブンブンと斧の風切り音が連続して響く。それはつまり斧が何にも当たっていないことを示す。


「嬉しいけどそろそろ退屈になってきたなぁ~。もう止まって見えるよおねーさん!」


 接近戦になっても依然ひらひらとアンジェリーナの斧を避けるソーサー。彼の言うとおり、やはり疲労や出血のせいか斧の動きは私にも遅くなっているように見える。

 それでもあきらめず斧を振るアンジェリーナだが、場に鳴り響く金属音と一筋の血飛沫を皮切りに、連続していた斧の風切り音が止んだ。


「んっ……ふぅ……」


 苦悶の表情を浮かべるアンジェリーナ。『それ』を目にし、とっさに名を呼びそうになったが先程の例もあるので私は黙ってその光景を見ていた。


「これでひとつ。うっふふふ……さあ次はどんな手がいいかな?」


 血に濡れたナイフを手に、余裕そうな態度を見せながらアンジェリーナへソーサーはそう言う。二人の足元には斧と血だまりがあり、アンジェリーナは左腕を押さえている。


「刺されるのと斬られるのじゃだいぶ違うでしょ? ぼくは刺す方のが好きなんだけど、おねーさんにはあんまりきかないみたいだしね。でも腱を切って物を落とすあたり一応おねーさんも人間なんだね」


 アンジェリーナの腕の傷を眺めながら、ソーサーはまた口を開く。

「でもなあー、なんか興ざめだなあ。ぜんぜん痛がらないからひょっとしてと思ったんだけど……いまいちだなぁ、もう終わりにしてもいいかなぁおねーさん」


 笑みが消え、つまらなそうな表情でナイフを振り上げるソーサー。

 何が気に入らなかったのは分からないが、突然表情ががらりと変わったのに寒気を感じた。そしてその寒気は更に増すことになる。振り上げられたナイフがアンジェリーナ方へと動き出したからだ。


「ばいばいおねーさん。すこしの間だったけど楽しかったよ」


 右手に持ったソーサーのナイフの切っ先が、アンジェリーナの首元へと向かっている。流石にこれはと今度は声が出かかったが、声が出かかった刹那、私は目の前の光景に絶句した。


 トンッ――。


 わずかな音と共にソーサーのナイフは動きを止めた。アンジェリーナの首に当たったからではない、アンジェリーナがナイフの刃を掴んで受け止めたからだ、それも腱を切られた左腕でだ。


 腱が切られた腕が動きナイフを掴んだのだ、ソーサーもこれには驚いた様子だったがそれもつかの間、右手のナイフが止められたと認識するや素早く左手でナイフを取り出してアンジェリーナの腹へとそれを向かわせた。


 ソーサーの判断の早さに私は少々驚いたが、二撃目のナイフも当たることはなかった。

 派手にバリバリと何かが引き裂かれるような音がした少し後、私とセシリアのすぐ前にカランカランと音を立ててソーサーの左手に握られていたナイフが落ちてきた。


「――ッ!?」

 これはさすがにまずいと感じたのかソーサーは後ろへ飛びのき、

「ああっ…………」


 心の拠り所が無くなったような表情で自身の体を手で隠しだした。

 というのも、ソーサーの服の前面が破れて肌が露わになっていたからだ。


 一瞬のことだったので私の認識が合っているとも言い切れないが、アンジェリーナは二撃目のナイフを右手で振り払ったのだ。その際ついでに指が引っかかってソーサーの服が破れ、振り払われたナイフが私達の目の前に飛んで落ちてきた、そんなところだろう。


「くっ……うぅ、うわあああああああああああッッ!」


 心情は理解しかねるが、服が破れるや急に涙を流し、怒りの表情でアンジェリーナへと襲い掛かるソーサー。よく見るとソーサーの体には様々な痕があった、絞められたような痕、切り傷、刺し傷、縫い痕……。この豹変ぶりはあれらを見られたからだろうか?


 今まで使っていたナイフのどれよりも大ぶりなナイフを取り出してアンジェリーナへ斬りかかるソーサーだが……、


「うっふふふ……、あっはははっはははッッ!!」


 当然のようにアンジェリーナはソーサーの腕を掴んでその攻撃を止めた。

 アンジェリーナの笑い声で私の背筋に寒気が走る。腱の切られた腕が動き、その上この笑い……もう疑う余地もない。


 あの頃の再来だ。


「痛ッッ!? ぐああああああああああああああッッ!」


 ミシミシ、ゴリゴリと嫌な音が鳴っている。握力だけで腕の骨を砕いたのだろう。


「ううっ……! うがああああああああああッッ!」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、空いた手で殴りかかるソーサーだが筋力の差は歴然。ぺちんぺちんと頼りない音がソーサーの拳から鳴る。

 ここだけ見るとただ無力な子供を虐待しているように見える。そう思えるほど、今までとは一変して一方的な光景が目の前で起こっていた。


「んッ、ふぅふふふ……ぃひいひひひひひひひ!!」


 どう形容していいのか分からない声を上げながらアンジェリーナはソーサーへ追撃を加える。血の飛び散る音の後、悲惨な子供の泣く声が場に鳴り響いた。

 その悲惨な光景に一度眼をそむけてしまった。だが現状を見るに何をしたのかは大方察しはつく、ソーサーの胸のあたりには大量の血、アンジェリーナの手にも血、よく見るとアンジェリーナの爪は剥がれているようにも見える。


「獣……」

 思わず声が出てしまった。自分の爪が剥がれるほどの力で相手を引っ掻くとは……。


「いえ、それ以上よ」

 横でセシリアがそう言った。詳細を尋ねると、少し前にある地面を指さした。


「これは……」


 石畳の上に、何やら白い物が転がっている。これは何かと疑問に思っていると、

「鎖骨よ。さっき飛んできたわ」


 なんたることか。

 なんとも信じがたいが実際に目の前で起きた事だ、横に証人もいるしでそれを認める他なかった。この人もこの人でよくこんな光景を普段と変わらない顔で見ていられるな。


 いつぞやのトマト缶を思いだす勢いで、びちゃびちゃと嫌な音がこの場に鳴る。この場合本当に血が零れ落ちている音なのだろう、距離は離れているが鉄臭さはここからでも感じる。


「うぐぅ……やだ……、やだよぉ……どうしてこんな……」


 もはやソーサーは私達を追い込んだという実績が嘘だったかと勘違いしてしまいそうな面持ちだ。血まみれの体で、悲惨な表情で涙を流す哀れな子供はその場にへたり込んだ。


「ひぃいい、ふふっッ。うぅふふフフ! あッははは……あァ……」


 へたり込むソーサーを押し倒し、笑いながら先程砕いたソーサーの腕を握るアンジェリーナ。両手で片腕を握っている。この後何が起きるか予想がついてしまった私は再び目を閉じた。


 子供の悲鳴。ミチミチと何かが引き裂かれるような音。「化け物」と罵る子供の声。桶の水をこぼしたような水音。鉄を引きずるような音。狂気的な笑い声。何かがパックリと割れるような音。何かが飛び散る音。そして鉄臭さとはまた少し違った嫌な臭い……。


 目は閉じても嫌な情報は耳や鼻から伝わってきた。

 子供の悲鳴はもうしない。

 それ故私はまだ目を開けられずにいた。


 ぐちゃぐちゃと、嫌な音が止まない。

 目を開く覚悟がなかなかできずにいた私だが、私の耳に新たな情報が入り込んだ。遠くからだが、コツンコツンとこちらへ近づいてくる足音が聞こえる。


 足音はアンジェリーナより奥から聞こえる。極力アンジェリーナの方を見ないようにしつつそちらの方へと目をやると、ブライアンがこちらへ近づいているのが見えた。


 おそらくアンジェリーナを見てだろう、驚愕の表情を浮かべたブライアンが走ってアンジェリーナの方へと向かい、

「これはどういう……!? よしなさ――」

「うェぇああああああああああっっ!!」


 アンジェリーナを止めようとしたブライアンだが、ブライアンが近付くやアンジェリーナは斧を振り、ブライアンの胸を切り裂いた。


 咄嗟に少し避けたからか最悪の事態は防げたようだが、ブライアンの胸からは血が流れている。見境なしか、クソッどうするべきだ。こうなったアンジェリーナを止める手立ては私には分からない。

 現状に頭を悩ませていると、


「落ち着け! 俺を見ろ!」


 覇気のある声色で、両手で顔を包みアンジェリーナの目を真っ直ぐ見ながらブライアンはそう言った。私には到底できない行動だ、つい先ほど斬りかかられ、危険な怪力を持つ相手にこんなことなど……。


 嫌な沈黙が少し続く。アンジェリーナの機嫌次第ではこのまま第二の惨劇が繰り広げられてもおかしくない。そうならない事を祈りつつその光景を見ていると、


「あなたは…………」


 狂気的な声色ではない、普段のアンジェリーナの声がぼそりとアンジェリーナの口から出た。


 ふぅ……。

 この場にいる誰もが胸をなでおろしたことだろう。


「落ち着きましたか? ――痛ッてェ……」

「ああ……その傷、ひょっとして……」

「いえ、お気になさらず。よく頑張りましたね、嫌な役を任せてしまいすみません。もう大丈夫です」


 まともな会話が出来ている。

 もう安心してもよさそうだ。それに『もう大丈夫』とブライアンが言っているあたりシレットの方も片が付いたのだろう。


 難を逃れ、ひと段落と知ると身体中の緊張がすこし解けた気がした。

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