不吉の前触れとどまることを知らず

 ブライアンに抱えられ、ニコラスの元へと到着する頃には、歩ける程度には脚は回復していた。だが状況は芳しくない。ニコラスへと放たれたであろう火は、もう結構な規模へと変貌を遂げていた。

 たき火のレベルより一段階強いか、といった程度だが、火は周りの建物へと引火していた。この規模だとバケツ一杯程度では到底消せないな……だがここから水場へは遠い。


「私は放って下さい。早く水を運ばないとこれは……」

「…………」


 ブライアンは何か悩んでいる様子だ。いや、何を悩んでいるんだ? この場合何を優先するべきかは――


「ここから一番近い水場はどこでしょう?」

 唐突に私へ質問を投げかける。


「ええっ? ここからだとあちらへ向かった先の――」

 炎とは異なる方向へ、視点を移して訊かれた事に答えていると、


 ジュワァァァァッ!


 熱したフライパンに水をかけたような音が私の横から響き渡った。

 音に引かれ、顔をそちらへ向けると、先程までの火は嘘のように消えていた。


「ええっ!? どういうことですかこれ?」


 驚きを隠せない。

 いったい何が起きた? サッと消せる規模の火ではなかったのに……。


「こういった場合に備えた特別な薬剤です。持っておいて正解でした」

「そんなのあるんですか? 聞いた事ありませんが……」

「騎士団の秘伝です。口外はしないでくださいね?」


 私も騎士だったけどそんな話は聞いた事が無い。

 というよりそんなものがあるなら、普及していてもおかしくないはずだ。

 発言の真偽について考えていると、


「ところでお住まいはどちらですか? 危険ですのでお送りしますよ」


 話題を変えてきた。詮索されたくないのだろうか?

 住まい? 家など……。


「家はありません」

「ふむ……では私の部屋ではどうでしょう? 路上で寝るよりは安全を保障しますよ」


 話題を強引に変えてきた感は否めないが、私としては食いつかざるを得ない事を話してきた。乗るほかなかった。


「ではご案内します。よろしければシャワーも浴びますか?」

「ぜひともお願いします」


 暗殺者に襲われた夜に、助けてくれた上寝る部屋を貸してくれる。

 数日身体洗ってない上、汗だくでトマトまみれな時にシャワーを貸してくれる。

 後光でも見えかねないほどありがたい施しだ。


 男が自室に連れ込み、シャワーを浴びさせる。

 ……いや、この際そうなってもいいか。


 今後の展開を勘繰りながら、ブライアンについていこうとすると、私の目の前を黒猫が横ぎった。不吉、もしくは幸運の前兆だ。


 にゃーん。


 私の方を向き、黒猫はひとなきする。

 闇夜に光る黄色い瞳に。ふと彼女が想起された。


 アンジェリーナ……。いや、今は彼女の事を気にかけている余裕はないか。


 私の横を通り過ぎ、黒猫は私の後方へ歩いていく。

 それを目で追うと、別のものが目に留まった。


 紅い月――。


 今日は満月の夜。丸い月が、紅く染まっていた。


「急に……?」


 さっきまでは普通の色だったというのに、なぜ急に?


「これもまた不吉の前触れですね。出発しませんか?」

「あぁ……はい」


 不気味だ。これでは黒猫の方も不吉を呼んでいるのかと考えるべきなのだろうか?

 そして一瞬、紅い月が映る景色の端で、また別の紅が見えた気がした。

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