その男、ニコラスにつき

 その日の晩。私はとある酒場にいた。

 ヤケ酒をしに来たわけではない。というかそれができる財力は今の私にはない。


 では何故こんなところにいるのか。

 答えはパトリシアに会うため、暗殺のターゲットになる者を尾行しているからだ。


「今日は運に見放されてるな……おかげでロクに飲めやしねぇ……」

「そう言うなよニック。この前お前ボロ勝ちしてたじゃねぇか。まだやろうぜ」


 例のリストに載っていたターゲットは、端の席で仲間とゲームをしながら酒を飲んでいる。ニコラス・ニコルソン・ジュニア。仲間からはニックと呼ばれているようだ。どんだけニコラスなんだよと、印象的な名前だったので尾行の対象に選んだ。


 昼下がりに号外を見てから思いついた尾行計画。

 尾行の対象になる候補は多くはなかった。パトリシアが渡してきたリストは六枚程度で、そのうちの三枚は、すでに亡くなった魚屋夫妻と、この世界の私だ。


 候補となる三人のうち、最もわかりやすく情報が集まったのがニコラスだった。

 このニコラスは、夜いつも同じ酒場で飲んでいるというので、その酒場で待機していたら情報通り姿を現したのだ。目当ての三人との邂逅もこれくらい簡単にできればいいのに。


 ニコラスが現れてからもうだいぶ時間は経っている。

 ただずっと動くのを待っているのも退屈なので、私はニコラスの身なりなどから彼の境遇を観察していた。


 ずっと安い酒しか飲んでいない。着古された衣服。アル中。賭け事好き。

 典型的な貧民なのだろう。私が言えた事ではないが。


「今日は止めだ止め。次負けたら止めにしようと思ってたんだ。金ももうねぇしな」

「そうかい、でも同情はしないぜ。前あのウイスキーを俺達の前で美味そうに飲んでた事を俺は一生忘れねぇからな」

「少し飲ませてやっただろうが。いいじゃねぇか今日の勝ち分で同じの頼めばよ、俺は今日負けっぱなしで飲む気分じゃねぇ……」


 珍しい事もあるものだ、と仲間達に笑われながらも、ニコラスは席を後にした。よし、ようやく尾行の始まりだ。




 満月の夜。記憶が確かなら、今頃この世界の私も似たような事をしているだろうな。

 十年後の自分と同時期にしているとは夢にも思うまい。いや、断言する。してない。


 酒場を後にしたニコラスは、ふらついた足取りだった。

 結構な量を飲んでいたからな、こうもなるだろう。


 夜なうえに、相手は酔っ払いだ。尾行は簡単だった。

 そして、酒場から大きく離れ、周りに人の声が聞こえなくなる頃それはおきた。

 裏路地の方から、軽い金属音が大量に響き渡る。


 不覚にも、私もその音には大いに反応してしまった。我々のような貧民なら絶対に反応するであろう音だ。

 それはコインを落とす音だ。実際に落とす光景を見ていたわけではないが、確信を持って言える。静まった闇夜の街道に、ジャラジャラと魅惑的な音が鳴り響いていた。


 私がこれだけ食いつくのだ。ギャンブルで負けた貧民がこれに食らいつかないはずがない。少々周りに目をやり、吸い寄せられるようにニコラスは裏路地へと足を運んでいった。なんだか不思議と蜘蛛の巣にかかる蝶が想起される。哀れかなニコラス。気持ちは分からなくもないが。


 この先何が起きるかは予想がついている。

 これからすぐに現れるであろう暗殺者に気付かれないように、私は壁に貼りつきながら裏路地へ入っていったニコラスの様子をうかがった。


 既に出ている死体の、殺害の手口から察するに、パトリシアがこの場に現れる可能性は五分五分といったところだろうか。

 頼む。この場に現れるのがパトリシアであってくれ。今日酒場でニコラスが負け続けていた分、私には運をくれと祈りなら裏路地を見るも、奥の様子は暗くてよく分からない。


 建物の陰になっている分、月明かりが射さないな……ひょっとしたらもう殺害されているのかもしれないと考えた瞬間、先程の金属音とは別の音が響き渡った。


「痛っってぇな!!」


 何かの破砕音のあと、すぐに怒りの声を上げるニコラス。

 遅れてぽたぽたと、また別の音がその場に鳴る。


 察するに瓶で殴られたのか? だが暗くて様子は分からない。

 様子をうかがおうと、深く覗き見ようとした瞬間。再び場に響き渡った瓶の破砕音と共に、状況は一変した。


 明るくなった。


 急に裏路地が明るくなったのだ。明るさには温かさを連想するものだが、この場合そのような優しげな印象は微塵も浮かばなかった。


 私は反射的に、覗き見ようとした顔を素早く物陰に戻す。そうした理由が、見つかるまいとしたからなのか、それともその凄惨な光景から目を背けたかったからなのかは分からない。


 私の視界の外にある、明るくなっている裏路地の方から生じた悲痛な叫び声が、静まり返っていた夜の街に響き渡る。

 今まで出していたニコラスの声とはまるで違う。

 普段では絶対に出ないような声が、私の耳に否応なしに届いていた。

 裏返った叫び声、しゃがれた苦しげな叫び声がランダムで繰り返される。もだえ苦しみ、手足をばたつかせているような音も。聞いているだけで身の毛がよだつ。凄惨とはまさにこのことだ。

 それに続き、


「ハァッハッハ!! 良い燃えっぷりじゃねぇか!! やっぱりアル中は肉にまでアルコールが染みてんのか? あぁ? おい答えてくれよおっさん! まだ死んでねぇだろ?」


 ニコラスとはまるで違う男の声が私の耳へと届く。


 ――ハズレだ。この場に居るのは放火魔の方か。


 それにしても不快な台詞だ。

 魚屋の夫人は生きたまま焼かれていた。

 そこから察するに、苦しむ様を見たがっているのかと予想はしていたが、どうやらそのようだ。まったく、当たってほしくない予想に限って当たる。嫌になるな。


「ああそうだ。そういやあんたまた飲みたいっつってた酒があったよな? 餞別にダースで用意しておいたんだ。おらァ! フェヘヘッ!! くれてやるよ!」


 再び瓶の破砕音が鳴る。同時にプンプンと強い酒の臭いがあたりに広がる。

 ウイスキーの臭いだ。

 それのすぐ後、怒り狂った獣のような咆哮があたりに響き渡った。


 予想していた以上にえげつない事をするな……この放火魔は。

 ニコラスの咆哮をかき消すように、吐き気を催す下品な笑い声が私の耳へ届く。


 今にもこの場を後にしたい。

 この際近くにパトリシアが居ようが関係ない。吐きそうだ。

 この場を後にしようと、表通りの方へ体の向きを変えようとすると――


「こんばんは、おねーさん」


 どん、という軽い衝撃と共に、子供の声が私の耳元でささやかれる。


 ――!?


 下腹部に嫌な感触がするが、一旦それはいい。声が聞こえたのとほぼ同時に、私は話しかけて来た者を、振り返ると同時に反射的に突き飛ばしていた。


 声のとおりな容姿の者がそこにいた。だが――

 脇腹のあたりから、なにかがでろんとこぼれるような感覚がする。


 それに続き、私の足元からはぽたぽたと何かが落ちているような音がする。


「……これは」


 怖かった。

 確認するのがとても恐ろしかった。

 認識の外であるなら、『それ』もしないと思いたかった。


 だが、見たくないと必死に思う私の脳に反して、首や目は勝手に動いてその光景を視界に運んできた。


 赤い。


 見間違いじゃない。勝手に動いた手に着いていたものも、私の脇腹からこぼれているものも、真っ赤だった。

 そして、それが何であるかを知らしめるにふさわしいものが、私の脇腹に突き刺さっていた。


 ナイフ――。


 内心、それを確認する前から分かっていたのだろう。認めたくないと思いながらも、脇腹に刺さっている物が何なのかは、目に入った途端にすんなりと認識された。


「んー? いやなにおいだなぁ……」


 目の前で、私が突き飛ばした男がそう言った。嫌いな食べ物を出されて不機嫌になった子供のような表情で。


 痛みはなかった。それよりも不快感の方が勝る。べちゃべちゃと嫌な音を立てながら、固体とも液体とも言えないような物が私の脇腹からこぼれ落ちる。


「あー? それって……」

「もしかしてこれ……」

 私も、刺してきた男もこれの正体には、ほぼ同時に気付いたようだった。

 


「「トマト?」」

 


 あっけにとられた。

 奥ではまだニコラスが叫んでいるが、しばらくは耳に入らなかった。


 脇腹に刺さっているナイフを、根元を押さえながら引き抜くと、押さえていた手にそれの感触がうつる。


「これはあの時の……」


 脇腹あたりにあるポケットから出てきたのは、以前路上で寝ていた際にパトリシアがリストと入れ替えたであろう缶詰めの缶だった。


 くっ。ふふふははは。


「フッ……ハッハッハ……」


 面白くもないのに自然と笑い声が漏れ出た。

 奇跡。缶切りが無くてよかった。トマト臭い。


 何を思えばいいのか分からない。笑うしかない。

 だが、軽く放心状態の私はすぐに現実に引き戻される。


「誰かいるのか? ソーサー」

 裏路地の方から、こちらへ向けて声が聞こえる。


「うん。シレット、ぼくたち運がいいよ、リストにあった人かもしれない」

 ソーサーと呼ばれた目の前の男が、裏路地にいる放火魔へと言葉を返す。


「そうか。どいつだか知らねぇがお前でやれ、俺はまだコイツと遊んでる」

「りょうかーい」


 まずいぞ。

 笑っている場合じゃない。そうだ、こいつは暗殺者だ。


「くそ……ッッ!!」


 状況を思い出すと同時に、私は手に持っていたトマト缶を目の前の男、ソーサーの顔めがけて投げつけた。


 そして当たったかどうかの確認をすることもなく、私はその場を全速力で後にした!


 暗殺者に後ろを取られていた。しかもナイフを刺された。

 奇跡だ。今生きているのは奇跡としか言いようがない。


 だがこの場から生きて脱せるかどうかは、今の私次第だ。

 何をするかは考えるまでもない。逃げよう! それしかない!


「よくないなぁ~!」


 子供っぽい声色ながらも、完全に怒気を孕ませた声が後方から聞こえる。

 トマトは嫌いか? だが知るか! 殺されるのはもっと嫌いさ!


 私は満月が照らす街道を、全速力で駆けた。

 たしか当時の私もこんな展開に……

 いや、昔と重ねている暇はない。今は逃げるのに集中しないと!

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