第2話 恋愛考

「例えばなんだけどさ。恋と愛に明確な違いがあったとして、君はそれがなんだと思う?」

「どうしたんだ? 藪から棒に」


 私は彼女の突然の問いかけに少しばかりの戸惑いを見せたが、しかし、以前から何度も行われてきたやりとりだけに、口ではそういいつつも律儀に考えてみることにした。

 いつもの四畳半の部屋で、彼女の問題提起に頭を悩ませる私という、オカルト研究会のごくごく日常的な光景がそこにはあった。

 前回というよりも三日前は、切り口がいかんせん科学的であり、私が思考を放棄してしまったので、彼女が初っ端から自分の考えを主張するといういささか変則的な進行となっていた。


 もっとも、今回も話題がオカルト的ではないので――どちらかというと哲学的だ――、イレギュラーといえばイレギュラーなのだった。しかし、最近では例外であることが当たり前という悪しき風潮が生まれているような気もする。

 彼女はちゃぶ台の上に肘をついて、後ろに伸ばした脚をバタ足でもするかのように揺らしていた。

  恋や愛など、たかが一八年間しか生きていない私なんぞが語れるはずもないが、それでも、見栄を張りたいお年頃である私は自論をいささか格言っぽくして語った。


「人の外見や振る舞いを見て好きになるのが恋で、内面に触れてそれでもまだ好きでい続けることができれば、それが愛なんじゃないかな」

「へえ、その心は?」

「その心はと言われても、そのままの意味なんだがな。でもまあ、例えば一目惚れというのがあるだろ? あれを例に取ってみると、『一目惚れです。好きです、付き合ってください』とは言っても、『一目惚れです。愛しています、付き合ってください』とは、言えないだろう?」

「すっごく、尻軽に見えて仕方ないね!」


 彼女の同調を得られたことで、胸をなで下ろす。ここで、真っ向から否定されるならまだしも、無関心を装われてしまうとかなり精神的ダメージを負っていただろうから、とりあえず反応があってよかった。

 恋愛観を熱弁して無視されるとかどういう罰だろうか。

 下手したら、明日の大学は私の身投げによって、尽きることのない話題のネタを提供してしまうところであった。

 ……あ、でも死んで名を残すのって偉大な芸術家っぽくて格好いいかもしれない。


「いやー案外、普通にあ、死んだんだ。へー。程度で済まされると思うけどね」

「その発言が私を窓際に引き寄せるんだぞ、分かっているのか!」

「……どうしてそんなにも情けないことを、仮にも、否、完璧な女の子である僕の前で言えるのかねえ」

「うっせ。あと、『完璧に』を『完璧な』と噛むな! アンタが完全無欠の美少女という風に誤解してしまうかも知れぬだろうが!」

「いやー、ほら。外見描写のない今のうちに読者に潜在的なイメージを植え付けておこうかなあと思ってさ」

「彼女の髪は黒く、肩に届くかどうかの微妙なところでばっさりと一閃されている。『僕』という一人称を好んで使うため、男勝りな性格だと思われるようだが、その通りであるので、否定できない。否定しているのは当の本人だけである」

「おおっと、君! 何をしているんだい!? せっかくの僕の戦略が台無しじゃないか! というか、僕はこんなんでも、内心は乙女だから! 完全無欠の美少女様だから!」


 彼女の外見が明らかになったところで、私は話しの本筋を戻した。戻した瞬間、目の前からブーイングがさながらシャワーのように浴びせられたが、複数人ではなく単独で行っている彼女に少しばかりの哀れみを覚えた。

 もう少し、優しく丁重に扱ってあげたほうがよいのかもしれない。


「で、反対に愛していると言う言葉だけど、私は残念ながらそのような高貴な言葉を口にしたことは今まででないけれど、でも、おそらくは、付き合い始めていくらか経験をした後に言うものだと思う。何度か喧嘩を繰り返し、互いに嫌な思いをさせあい、それでも、好き同士でいれるからこそ、そういうことを言い合えるのだと思うよ」


 もっとも、全ては彼女というものを生まれてからこの方作ったことのない私の発言であり、信憑性の欠片もない戯言ざれごとである。まったくもって、オカルト研究会にふさわしい胡散臭うさんくささであった。


「なるほどなるほど、つまりは、常日頃から肉体言語で語り合ってこそ、真の愛情が芽生えるというわけだね!」

「おおっと、私の発言をどういう風に切り取ってつなぎ合わせれば、少年漫画のような友情の芽生え方になるんだ。そんなの、復縁すらあり得ないぐらい壊滅的に破局するに決まっている!」


 喧嘩は喧嘩でも、私は口喧嘩の方を想定していた。


「ははは。でも、案外そういう人達の方が、ずっと付き合えるのかも知れないよ?それこそ、百歳になっても互いに相手がくたばるまで死んで堪るものか、と競い合っているかもしれないし」


 そんな、平穏ではない老後生活など、私は御免ごめんこうむりたいのだが、しかし一定数の人々はそれこそが理想であると思っているかも知れぬので、強くは述べないでおこう。


「まあ、私としては、そんな老後のことを考える前に、愛について考えるまえに目先の恋について考えなければならないな」

「ん。あれ? もしかして、君ぃ。好きな子でもいるの? かなかな?」


 非常にうざったい口調で彼女は訊いてくる。とはいえ、最後の『かなかな?』という言葉遣いは、文章に起こして読むだけに止まれば、まだ可愛げが多少――雀の涙からさらに水分を飛ばした程度はあったけれど、実際は、妙にリアルなひぐらしの鳴き声を再現していたことをここで明らかにしておこう。

 ただただ気持ちが悪かった。


「いないよ。いないからこそ、目先の恋でもしなければなと思っただけだ」

 実は思い当たる節がないこともないのだが、それはまた違う感情であると思われた。というのも、この感情が恋であってはならないと思うからだ。恋とは、もっと新鮮なものであり、触れると水しぶきが飛んでくるような、一欠片ひとかけらでも口に含めば、その圧倒的な甘酸っぱいさと芳醇ほうじゅんさゆえにガツンと後頭部に刺激が奔るような、とにかくそういうものであるはずなのだ。

 こんな売り場の奥で売れ残り、捨てることもされずにズブズブと腐っていき、終いには異臭騒ぎにまで発展しそうなこれが恋であるはずも、ましてや愛であるはずもない。


 懸命な読者諸君はもうお気づきだと思うが、しかし、万が一にでも認識の違いがあっては困るので、きっぱりと宣言しておくが、私は目の前にいる彼女に対してあの腐臭漂う、恋心だったものを抱き続けているということはないので、安心していただきたい。


 彼女は私のサークル仲間であり、親友である。


「ちぇえ、なーんだ。つまんねえの」


 一瞬、誰の発した言葉なのか分からなくなりそうなレベルで彼女の口調が崩れた。新キャラかと見紛うほどであるが、そんなにも、私の恋愛事情をからかえなかったのが嫌だったのか。


「まあ、いい。次はアンタの番だよ」

「ん? 僕かい。いやあ、正直僕ってかなりメンヘラっぽいきらいがあるから、君みたいなしっかりとしたことは言えないし、むしろ、恋や愛なんて名前が到底つけられそうもない、ズブズブと液状に腐り果てて、その上で相手、拭い取られないように付着しているようなものだから、少し趣きを異にするかも知れないよ」


 などと言って、予防線を張りつつ前置きを語った彼女はこう言った。


「私が思うに恋というのは、その人を愛してみたいと思うことで、愛するということは、その人に殺されてもいいと思うことだと思うんだよね」

「……殺されてもいい?」


 あまりにも語呂が強かったので、聞きたいところは他にもあったが、とりあえずは最も異質であったところを問うてみた。


「そう。殺されてもいいんだ。というのもね、君は愛した人とどうしたい?」

「どうしたいって、そりゃあ……結婚したい? とか」


 言葉の合間に何を考えていたのか、それをここで表すことは妄想とはいえ、わいせつ物陳列罪で捕まりかねないので、自重しておこう。


「そう。じゃあ、結婚して最終的にどこまでいきたい? 結婚して、離婚する? 子供達を産んで、離婚する? 子供達が巣立って、離婚する? 四十代で、離婚する? 五十代で、離婚する? 老老介護に陥る前に、離婚する? ねえ、君はどうしたい?」


 そんなのは決まっていた。考えるまでもない。


「そんなの、一生を添い遂げるに決まっているだろ?」


 すると、彼女は私が予想通りの答を返したからだろうか、嬉しそうに笑った。


「ありがとう。そうだよね! でも、それってつまり、ずっと一緒にいてくれるということだよね? 一人の時間を削って、相手のために自分の時間を割く必要が出てくるし、その上、相手に尽くしたとしても、先にどちらかは死んじゃうんだ。ようやくできた一人の時間は全然楽しくなくて、むしろ寂しくて、いつもその人のことを思って泣いて、ものすごく辛いと思うんだ。そりゃあ、心中自殺で二人とも死ねればいいかもだけど、流石にそこまでは望まないよ」


 だからね。


「僕は思うんだ。誰かを愛するということは、その人に殺されることだって。今まで自分だけで確立していた『僕』という存在に、彼という存在を埋め込み、折衷せっちゅうし、溶けあって、それで残るのは自分ではない僕なんだ。一人だと寂しくて、二人じゃないと嫌で。あれだけ好きだった一人の時間が、けれどもただただ寂しい虚しいものに変わってしまって。……ねえ、これを自我の死と言わずになんと呼ぶと思う?」


 私は黙って彼女の言葉を聞くことしかできない。私が目先の現在だけに主軸を置いた考えをしていたのに対し、彼女はその先の未来のことを考えていたのだから。大は小を兼ねるけれど、小はどうあがいても大には及ばないのだ。


「その点、恋するのは簡単だね。だって、愛することを妄想するだけでいいんだから。自分が相手に殺されるということを、さして具体的なことも考えずに、ああ、僕は彼に殺されるんだってその優越感にただただ酔いしれればいいんだから。僕のために、彼もまた彼自身を殺しているんだって無責任にも思って恍惚としていればいいんだから」


 気がつけば私は彼女の論に聞き入っていた。相手のために使う時間が増えていくことを、死ぬことだと表現したことに強い関心をいだいたからである。

 いささか暗すぎるような気もしたが、脳天気にも目の前のことしか考えていない私なんぞが未来を見据えた彼女の論にケチをつけられるはずもない。


 しかし、このような意見が大学生の口から出てくるとは。私はそのことに驚きつつ、それと同時に、彼女はかなり多くの恋愛経験をしてきたに違いないと思った。そうすれば、私の家に常日頃から上がり込んでくると言う行為に対しても、一応の説明がつく。異性間の距離感が麻痺しているのだろう。

 恋愛経験の豊富さゆえの疾病しっぺいとでもいうべきそれは、しかし、恋愛経験が極端なまでに不足している私にとっては、雲を割いて光を放つ太陽のごとく眩しく、うらやましかった。


 是非とも、享受きょうじゅ願おう。


 私はそう思い、早速今までの話を中断させ、私にとって恋や愛を説くよりもよっぽど価値のある情報を引き出すべく、口を開くが、いくら何でも急には不自然であろうと思い至り、差し障りない程度の質問を一つした。


僭越せんえつながら私が思うにアンタは恋愛経験が豊富みたいだけど、今までに何人もの人と付き合ってきたんだ?」


 できるだけ、下品な口上にならぬように頑張ったつもりであったが、どうだろう。今、振り返るといたく失礼なことを聞いてないだろうか、私は。

 けれども、そんな私の考えなど杞憂であると言わんばかりに、彼女は破顔した。それこそ、全てがおかしいというように笑った。

 そして、一通り笑ったあと片目をつぶってウィンクをしながら、舌を出してこう言ったのだった。


「ごめん、僕今まで付き合った人とかいないから、恋愛経験とか皆無だから、君の思っているようなアドバイスはできないや。テへッ!」


 私は心の底の感情という名の泉から、こんこんと湧いてくる殺気やら羞恥心やらに身を震わせたが、結局は恋愛経験が皆無に等しい男女が恋と愛を俎上そじょうにあげ、それっぽいことを言い合っていただけに過ぎず、この無意味な会話に少しでも益を求めてしまった私の落ち度であることは、どこからどう見ても明白であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る