第7話 幻のビートルズ公演のきっぷを手放す

 やはり、内川は優しい夫であった。 しかし、優しくマメ過ぎる内川には、結婚しているのが分かっていても、女性が寄ってくるのだからどうしようもない。ほとんど夜の女性だったようである。


 それは、結婚する時、いや、その前から分かっていたことであるが、好きになったらこればかりはどうにもできない、男と女の性(さが)かも知れない……だから間違いも起こるのだろう。


 あの女、この女、風子に聞こえてくるだけで相当な数になっていた。


 当時の世間の大人の中では、浮気ごときにそんなに喚くなよ!と云うのが常識言葉になっている。自分でも結婚する前は(浮気される方が悪いんだよ……)そう思っていた。


 しかし、それは違う。実際その立場になってみると、腸が煮えくり返る、と云う表現に等しい。それでも、泣く泣く堪えて、最初はその相手の女の所に菓子折り下げて何度も行った。

 

「子どもの為に分かれてください」

「ふーん、良く来たわね!子供の為でなく、あんたの為じゃないの?」


と、軽くあしらわれたこともある。

 しかし、家に帰って来る内川は優しかった。子どもも可愛がった。ちょうど、念願のあまり大きくないが家を新築したころ、極度にお金に困った。

 悪い事は重なるもので、内川が盲腸で入院した。その時、何故か、飲み屋のママさんたちが入れ替わり立ち代わり毎日毎日見舞いに来た。

 風子は子どもを二人連れて一人はおんぶして隅っこで「すみません、有難う」と小さい声で云いながら惨めな気持でいた。


 見舞いに来る中の一人の光子という女性がいた。特別きれいな若いママさんである。

話し方が他の女性たちと違うし、随分親しい仲だと風子は感じとった。

 それでも我慢して家庭円満を装いながらも、日を重ねるごとに、自分があわれに感じられるようになるのがわかった。


 風子は心の中でそのような内川を許せなかった。


 すぐにでも出ていきたかった。別れたかったが……お金も無いし、第一住む家も無いではないか!


 風子はあらゆる事を考える。その結果、自分がお金を稼がなくては分かれる事も出来ないではないか!と結論づけることになった。


(よし、やろう!)


強い決心が込み上げてきた。


『何をやる』のか……それは、内川と離婚することを決心したことであった。


 考えたのは、せっかく新築の家に住めているのだから、このまま働くことにしようと言う事である。


(別れるのはいつでも出来る!自分が我慢すればたいした事では無い!)


 風子は一旦決心したら、夫の女性関係なんか嫉妬することも無くなった。

かえって見舞いに来てくれるほどに、煩悩のある夫と思えば気分も晴れると、解釈できるようになった。人間は心の持ちよう、解釈の仕方でとらえ方が全く逆になる。それは現実逃避なのかも知れない。だが、それが風子の精神的安定に一役買ったのは間違いないのだ。


離婚を決意した風子は『手元にいくらかの金銭的余裕を持たなければ自由な動きはできない』と判断すると、どのように金銭的余裕を持つかを考えるようになっていた。


(あ、あれだ!!)


風子の心の中にその時、ひらめいたのは、ビートルズの切符を買いたいと云った人の事を思い出したのだ。

 あの、たった一枚のビートルズ公演のまさしく「幻の入場券」を手放すことにした。


 いつまでも幻に浸っていたら生活が成り立たないことを感じた。思い出はとっくに胸の内に収まっているから、ビートルズ公演のチケットは紙切れにすぎなくなった思いである。


 風子は早速、連絡をとるとビートルズチケットを手放した。チケットは一万五千円で売れ、風子の手に渡る。


(自分だけの秘密……なんて心地良いのかしら……)


 風子は心の中でニンマリと微笑む。今までの鬱積した日々が嘘のように風子の心は軽くなっている。


 内川も無事退院してまずまず平穏な生活が成り立っている。


 面白い事に、そんな疑似家庭に、自分たちよりも離婚することに積極的な友達夫婦がいる。その夫婦こそ、いつも夫婦喧嘩をしたら駆け込んでくる。それを自分たちは同情しながら仲裁している。

『自分も側にいるこの夫と別れようとしているのに』と思うと可笑しかった。

 そのような痴話げんかの仲裁は一組だけではない。色々な知り合いがやって来ては、風子達は何組もの、相談に来る夫婦たちを仲直りさせている。

 

こうして、疑似夫婦家庭は駆け込み寺のようになっていたからこれも、お笑いである。


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