3
ドアを閉めて鍵を回した勝也は、そのまま後ろは見ずに大きな溜め息をひとつついた。
それからゆっくりと振り返った。先に進んでいた麗子が、右側の壁に向かって置かれている細長いデスクの上のスタンドのスイッチを、静かに回して入れたところだった。
淡い間接照明にぼんやりと浮かび上がっていた感じの部屋全体が、スタンドの明かりでくっきりとその輪郭を現した。
オフ・ホワイトを基調としたシンプルなインテリアには確かに洗練された感じがあった。つき合い始めたばかりの若いカップルが喜びそうなホテルのようなけばけばしさや必要以上の重厚さはなく、かと言って出張に出てきたサラリーマンが睡眠を取るためだけに使うビジネスホテルのようにセコくもなかった。
決して高級とは言えないが、大都会の片隅に静かに佇んで、街の喧噪や非情さから逃れてひとときの安らぎを求めてやってくる人間を迎えるにはうってつけの、まさにシティ・ホテルだった。
酒場で言えば、ウォーターフロントの大きなクラブではなく、ガード下の居酒屋とも違う、ビルの谷間狭い路地を入ったところにあって、本当の酒を飲みたい男が一人で訪れる、気の利いたバーテンのいるバーだ。
麗子はスタンドの横にバッグを置いて、ベッドの端に遠慮がちに腰を下ろした。その拍子にスカートの裾の前開きの部分から白い足が顔を覗かせた。
勝也はまだドアの前に立っていた。着ているジャケットのポケットに両手を突っ込み、困惑顔で麗子を見つめている。
やがて麗子が言った。
「どうしたの?」
「いや──別に」
勝也はぼそぼそと言った。内緒で塾をサボったことがばれて、今から母親にお灸を据えられようとしている子供のように、重い足取りで麗子のそばに行った。
麗子はそんな勝也の手を取って引き寄せ、隣に座るように促した。
勝也は腰を下ろすと同時に麗子の背中に手を回した。そしてゆっくりと振り向き、躊躇いながらもキスをした。
顔を離すと、勝也は俯いた。膝の上に置いた手で拳を作り、それをじっと見つめた。
「……シャワーを浴びてくるわ」
そう言って立ち上がりかけた麗子の腕を、勝也が掴んだ。
「待てよ」
「えっ?」
勝也は厳しい表情で麗子を見据えた。「……何でそんなに急いでる?」
「急いでなんかいないわ」
「今日はそんなつもりはなかったんやろ?」
「そんなこと、最初から決めたりしないわ。特別な日でないと」
麗子は伏し目がちに、低いトーンで言った。
「俺が余計なこと言うたからか? おまえのこと、ただじっと待ってるだけみたいな」
「違うわ」
「ほな何でや? 何で突然こうしようと言い出した?」
「突然言っちゃいけないの? どうして? 女だから?」
「そんなこと言うてるんやないよ」
「勝也、あたしが嫌なの?」
勝也は眉をひそめて麗子を見た。「……まだ信じてへんのか? 今までおまえに言うてきたこと、みんな嘘やとでも思てんのか? シャワーなんてどうでもええから、今すぐしたいくらいなんやぞ」
「だったら何であたしを困らせるようなこと言うの? ここへ来てから突然そんなこと言い出すなんて変じゃない」
「おまえが無理に、勢いでそうなろうとしてるって思うからや」
「そんな──」麗子は俯いた。
「なあ、何かあったんか?」
「何もないわ」
そう言うと麗子は顔を上げ、切なそうな眼差しで勝也を見た。
「……お願いだからいじめないで」
「いじめるつもりなんてないよ。ほんまのことが聞きたいだけや」
「本当に何もないわ。あんたに抱いて欲しいと思っただけ。ただそれだけよ」
そして麗子はデスクのバッグを掴んだ。「嫌ならいいのよ。帰りましょうよ」
「嘘つくなよ」勝也は引き下がらなかった。「俺はそんな間抜けやないで」
「………………」
「俺と寝たら、何かが吹っ切れるなんて思たんか?」
勝也に背を向けたまま、麗子はゆっくりと首を振った。
「……もう訊かないで」涙声だった。
「……しんどいよな、俺も」
勝也は自嘲気味に言って溜め息をついた。「そんな風に利用されるなんてまっぴらやと思うけど、それでほんまに俺のことだけ見てくれるんやったら、それはそれでええかななんて考えたりして」
「ごめんなさい」と麗子は言った。
「ええよ、もう」
麗子は短く鼻をすすった。勝也に見られないよう、素早く頬をぬぐうと、その手で耳のピアスを外した。
麗子が泣いていると察した勝也は、慌てたように顔を背けた。その様子は、まるで自分が泣いているかのように打ちひしがれ、怯えてさえいるように見えた。
やがて麗子が落ち着きを取り戻した声で言った。
「──やっぱり、してこなけりゃ良かったんだわ」
「え?」
「このピアスよ」
「ピアス?」
「まさか勝也が、同じこと言うなんて思ってもいなかったから──」
「同じこと──」
それですべてが勝也には分かった。
「言ったでしょ。『いつもはそんな大きいのつけてない』って」
「分かった。もういいよ」
「前に同じことを言われたから、思い出したの」
「ええから」
勝也は押し込むように言って立ち上がった。
「勝也──」
「ごめん。やっぱり帰った方がええみたいや。足の傷、また痛み出してきた」
麗子から視線を逸らせたまま、勝也はつっけんどんに言ってドアへと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます