Ⅷ.Unforgettable

 麗子には、もうどうしていいのか分からなかった。自分で自分の気持ちが理解できなくなり始めていた。

 男とつき合って、こんなにも自分の心が分からなくなることは初めてだった。

 ──ねえ麗子、あんたいったい何やってるの? いい加減にしないと、そのうち勝也も愛想を尽かすわよ。そうなったら、あんたはほんとにボロボロになっちゃうんだからね。──

 そんなとこだ。

 思い余って、麗子は豊に電話をした。男である豊にこんなに込み入った話を打ち明けるのもどうかと思ったが、自分と勝也の両方の性格を熟知している人物と言えば、彼の他には思い当たらなかったのだ。

《──面倒臭いな、おまえら》

 話を聞き終えたところで、豊はまず言った。

「面倒臭いって……」

《だってそうやろ。お互い必要やってことがはっきりしてるのに、何で最後にそうなってしまうんや。不自然やないか》

「深く考えすぎるのかな」

《そうなんやろな。鍋島は硬派やし、おまえは真面目やし。気持ちよりも筋を通すことや理屈の方が大事やとでも思てるんやろ》

「あたしは真面目なんかじゃないわ」

《どうかな。考えすぎるってことは、結局は真面目なんや》

「いい加減にしないと、きっと勝也はあたしが嫌になるわ」

《まずあり得へんな》と豊は笑った。《でも、ほんまにそう思てるんやったら、さっさと踏ん切りつけろよ》

「それがあっさりとできれば、豊にこんな相談なんてしないわよ」

《多少の不安はあっても、新しい状況に飛び込んでいくことでそれが解消されるなんてこともあるかも知れんぞ》

「そうなのかな」

《あいつは絶対におまえを裏切るようなことはせえへんよ。だって、あいつ自身がおまえといるのが一番心地よくて、気が安らぐんやからな。おまえもそれは分かってるんやろ?》

「ええ」

《それやったら、頭で考えてたってあかんってことも分かったんやし、あいつにすべてを任せてみろよ。こだわりをなくしてからでないととか、自分が納得できてからとか、面倒臭いことは一切棄ててしまうんや》

「そうね……」

 麗子は長い溜め息をつきながら返事をした。

《何や。溜め息なんかつくなよ》

「溜め息だって出ちゃうわよ……もう自分でも何がどうなっちゃってるのか、分からないんだもの」麗子は愚痴をこぼした。

《情けないなあ、おまえほどの女が》

「そんな風に言わないでよ。あたしがそんなに完璧な女じゃないって分かってるんでしょ」

 麗子はすねたように言った。「ねえ、豊が勝也の立場だったらどうしてる?」

《俺のケースを訊いたって、あいつとのことでは何の参考にもならへんよ》

「あら、どうして?」

《あいつと俺は違うって、おまえもよう知ってるやろうが》

「どうかしら? あんたたち、違うようで似てるもの」

《似てないよ。少なくとも一つは決定的に違うとこがある》

「何?」

《間違っても俺はおまえを選んだりせえへんってとこや》

 豊は言って、得意げに笑った。


 そんなとき、麗子は突然真澄から自宅に招待された。

 麗子は当初、何か特別な用件か、あるいは祝い事でもあるのだろうかと考えた。しかし特に理由があるわけではなく、正月以来会っていなかったこともあって、近況を報告し合おうということらしかった。

 真澄が勝也と自分のことを知りたがっているのか、それともできればその話題は避けて欲しいと思っているのか、麗子にははっきりとは分からなかった。けれども、真澄の方から誘ってきたところをみると、知りたいというほどではなくても、どうしても勝也の話には触れたくないという訳でもなさそうだ。

 そのことで麗子が、よもやこれほど悩んでいることなど、真澄は知りもしないのだから。


 この日は朝から玉あられのような雪の舞う寒い日だった。昼前に自宅の玄関に姿を現した麗子は、刺すような冷気に思わず大きなストールを頭からかぶった。そして、ここよりも遥かに厳しいであろう京都の寒さを案じながら駅へと向かった。


 細い三日月形に切った口から湯気が立ちこめては消えていく釜を挟んで、麗子は茶室の点前座の真澄と向かい合って正座していた。

「寒かったでしょう? 芦屋の方も雪?」

 マスタードカラーの無地の着物を着た真澄は、左手で柄杓を持ち、右手で釜の蓋を開けながら訊いた。

「ええ。こっちよりも少しはマシだけど」

 緑と桃色の餡で作られた金時菓子を食べながら麗子は答えた。

「夜には止むらしいから。夕食も一緒にって、母が言うてるわ」

「いつも申し訳ないわ。お構いなくって、叔母さまに言っておいてね」

「ええのよ、このところ上機嫌やから。今日麗子が来るのを一番楽しみにしてたのも母やし」

「あら、どうして?」

「さあ」

 真澄は抹茶をすくって萩茶碗に入れた。「あたしが、お見合いの相手ともう一度逢うことになったからと違う?」

「あ──そうなの」麗子は俯いて菓子を口に入れた。

「麗子、気にせんでもええのよ」と真澄は微笑んだ。「あたし、別に嫌々逢う訳じゃないから」

「分かってる」

「なかなか感じのええ人やったの。二代目やけど、仕事も全部任されてはるし。あったかい人柄やし」

「そう。良かった」

「ええ。価値観とか、育ってきた環境も似てるし──何よりあたしのこと気に入ってくれてはるみたいやし」

「でも、あんたは──」

「ちゃんと気に入ってるわ。心配せんといて」

「だったらいいけど……」

「大丈夫よ。焦ったり、自棄になったりしてへんから」真澄は言った。「麗子と勝ちゃんのことも、ちゃんと受け入れられてるから。安心して」

「あたしはそんなこと全然気に病んでないわ。でも──」

「もうええやない、麗子」

 真澄は麗子の言葉を遮った。「何でいつまでもそんなにこだわるの?」

「こだわるなんて……」

 麗子は大きく心を乱されていた。──こだわる。まただ。自分でも、勝也や豊にも言われた言葉だった。


 ──何だかあたし、まだこだわってるみたいなの。

 ──前の相手か?

 ──こだわりをなくしてからでないととか、面倒臭いことは一切棄ててしまうんや。


 自分でもどうしてしまったのか、まるで分からなくなっているのだ。分からないなどというのを通り越して、まったく見当さえつかない。こんな時こそ、姉妹と思ってつき合ってきた真澄にこの揺れる思いを聞いてもらいたい。いや、そんなことできる訳がない。

「麗子……?」

「えっ? あ……うん」麗子は造り笑顔を見せた。「ごめんね、あたしったら。余計なこと言っちゃったわね」

「そんなことどうでもええの」

 真澄はきっぱりと言って、茶碗を差し出しながら麗子をじっと見据えた。

「麗子、勝ちゃんと何かあったの?」

「何もないわよ」

 麗子は自分の表情が真澄に見えないように、必要以上に俯いて茶碗を取りににじり出た。「まったく、うまく行ってるわ」

「ほんとに?」

「ええ」

「だったらいいけど」

 そう言いながらも、真澄は厳しい表情で麗子を見つめていた。

「真澄……あんたはどうなの?」

「あたし?」

「そのお見合いの人と、うまくやって行けそうなの?」

「ええ」

「結婚したいと思ってるの?」

「まだそこまでは──」真澄は視線を外した。「向こうがどう言うて来るか、分からへんもの」

「じゃあ、相手に結婚の意志があるなら、すぐに承諾しようと思ってるの?」

「ええ、そうやね」

「本当?」

 今度は麗子が真澄の横顔をじっと見た。「じゃあもし先方が断ってきたら? 悲しいと思う?」

「麗子──」真澄は振り返った。

「……それともほっとする?」

「何が言いたいの? あたしにカマ掛けてるつもりなん?」

「いえ、そんなつもりは──」

 真澄に迷惑そうにされて、麗子は一瞬ひるんだ。しかしすぐに思い直したように顔を上げ、そして続けた。「あたしからこんなことは言いづらいけど、あんた本当はまだ勝也のことを──」

「やめてよ」と真澄はきつく言った。「それを訊いてどうしようって言うの?」

「だって……」

「あたしがまだ勝ちゃんのことを好きなのかどうか、気になるのはよう分かるわよ。でもあたしはあたしなりにちゃんと割り切ったつもりよ。それでええのと違うの?」

「そうなんだけど、でもやっぱり──」

「それとも、あたしがもしまだ好きやってことを告白したら、麗子は気分がいいわけ? あたしに勝ったみたいで」

「まさか、そんなこと」と麗子は大きく首を振った。

「でしょう。それやったらもう何も訊かんといて」

 そう言うと真澄は俯いた。

「……ごめんね」

 麗子は深く後悔した。自分の中に迷いがあるからと言って、真澄にまた辛い思いをさせてしまうなんて、何て自分勝手なんだろう。

 ところが──

「……大好きよ、今でも」

 真澄がぽつりと言った。

「えっ──」

「そんなに簡単に忘れられると思う?」

「……そうね」麗子は息苦しそうに頷いた。

「──三年前、麗子に引き合わせてもらって初めてあの人と会ったとき、あたし、わくわくするようなときめきを感じたん。自分の中にまったく新しい世界が広がったみたいで……それからずっと、あの人のことだけ見てた。会えた日はもちろん、そうでないときもずっと。自分の全部があの人で占領されていくのが分かったわ」

 麗子は何も言えずに真澄の話すのを聞いていた。

「……あの人の全部が好きやった。髪も、瞳も、声も、仕草も全部よ。あの人、右手で前髪の生え際にある傷を触るの、癖でしょう。子供の頃に家の窓ガラスにぶつけて七針も縫ったっていう傷。髪で隠れてほとんど見えへんから、頭が痒いのかと誤解されてしまうって言うてはった。でも無意識のうちについやってしもてるんやって。あたしはそんな癖でさえも好きやったわ」

 真澄はぼんやりと膝元を見つめて言った。長い睫毛の間から、愛おしむような眼差しが伺えた。

「そうやって、あの人のすることは全部受け入れて──言葉も全部」

 真澄の瞳から大粒の涙がこぼれた。「イヴの夜、満員のエレベーターでもみくちゃにされてるあたしの背中に腕を回して、自分の方に抱き寄せてくれたときの感触がまだ残ってる気がするの。その時の顔、あたしのことは見てなかったけど、その横顔もまだ忘れてへんわ」

 麗子の目頭も熱くなった。真澄の気持ちが、痛いほどよく分かったからだ。

「そんなに好きやったのよ。あっさり忘れられるはずがないやない?」

「ええ……」

「でも、あたしではあかんのよ」

 真澄はすがるような眼差しで麗子を見た。「あたしでは重すぎるのよ。 あの人にはあたしが苦しいの。麗子、あんたでないと勝ちゃんはあかんのよ」

「真澄……」

「麗子もそうなんでしょう?」

 麗子も黙って頷いた。

「それやったら迷うのはやめて。迷わんといたげて。あたしの気持ちなんて考えたりするのもやめてほしいの。そんなことしてたら、自分の気持ちとあの人の気持ち、両方踏みにじってしまうことになるのよ」

「……そうね」

「あの人は絶対に麗子を悲しませるようなことはしはらへんから。あたしには分かるの。あの人、自分では気がつかへんうちに、あんたをずっと追いかけてはったんやから」

 麗子は胸がいっぱいになった。そして今すぐ勝也に逢いたいと思った。

「麗子の心に、まだ昔の人が残ってるって言うんなら、そのことを責めるつもりはないわ。気持ちは分かるもの。でもそんなんじゃなくて、あたしへの遠慮とかで迷ってるんやったら、あたしすぐにでもお見合い断って、それでもう一度──」

「真澄、それは……」

「麗子はそうやっていつでもカッコ良く振る舞うつもりなんやろうけど、あたしは違う。どんなにカッコ悪くても、ボロボロになってでも、それでもいいからあの人に──」

「やめて──!」

 麗子は思わず言った。

「……忘れてないのよ、今でもまだ」

「分かってるわ。それでもお願い、やめて。諦めて」

 麗子はきつく目を閉じて言うと、やがて膝の上に手をついて項垂れた。

 そして今度は弱々しい声で言った。

「……取らないで」

「麗子……」

「あたしも、勝也じゃないと駄目なのよ。今はっきり分かったわ」

 真澄は戸惑った表情で麗子を見つめていたが、そのうちふっと微笑んだ。

「……取るなんて無理。取りたくても」

「ごめんなさい……」

「ええのよ」

 真澄は小さく溜め息を漏らした。

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