映画の後、二人は曾根崎そねざきにあるイタリア料理の店に行って食事を摂った。

「ワイン、もう一本飲む?」

 あっと言う間に空になったボトルに目をやって、麗子は勝也に訊ねた。

「そうやな──おまえは?」

「あたしはもういいわ。ハーフボトルにしたら?」

「うん」

 勝也は頷くと周りを見回し、客が帰った後のテーブルを片付けている店員に目で合図をした。

 店員が近づいてくると、勝也は空のボトルを示して言った。

「これと同じやつ、ハーフで」

 店員は軽く会釈をして戻っていった。

 向き直った勝也に、麗子が落ち着いた声で訊いた。

「ちょっと見ないあいだに、ずいぶんやつれちゃったんじゃない?」

「そうか?」と勝也は首を捻った。「──うん、やっぱりそうかな。二週間ぶっ通しで十七時間労働やったから」

「まともな時間に電話掛けても、ちっとも通じなかったもの」

「悪かったよ。留守電に入れといてくれてたのは聞いてたんやけど──帰ったらいつも夜中やったし、バテてもいたから返事できひんかった」

「いいのよ、それは。それより大丈夫なの? 体調は」麗子は言った。「あんた見かけに寄らず、まるっきり丈夫って訳じゃないから」

「五年以上もお巡りやってると、それももう馴れたよ」 

 ふーん、と麗子は溜め息をついた。「あたしはまだ馴れそうにもないわ。あんたのそんな話」

「そのうち当たり前みたいに思うようになるって」

 勝也は伏し目がちに言って小さく笑った。

 店員がワインを運んできた。栓を抜き、空になっていた二人のグラスに適量を注ぐと、古いボトルの入ったワインクーラーを下げて新しいのと交換し、静かに去っていった。

「──ねえ」

「うん?」

「この三週間近く、あたしがどんなことを考えてたと思う?」

「俺のことでか?」

「ええ……まあ、そうね」

「俺だけやなくて、真澄のことなんかも全部含めてってことでやな?」

「そう。その通りよ」麗子は頷いた。

 勝也は少し考え込むように、テーブルに並んだ料理を眺めた。それから上目遣いで麗子をちらりと見ると、口の端に微かな笑みを浮かべてゆっくりと言った。

「自分が、俺とほんまにそう言う関係になってもええのかどうか」

 麗子はぱっと顔を上げた。ぴったり、その通りだったからだ。

「大当たり、か」勝也はにやりとした。「そうびっくりすんなよ。俺のことを、九年前からおまえを知ってるキャリア五年の警官やと思たらええんや」

「そうね」

「おまえとの電話での話とか、留守電のメッセージなんかから、おまえの、俺への気持ちが段々と固まってきてるっていうのは感じてたよ。それが嬉しかった。けど一方では、おまえが必死で真澄の存在とか過去の自分に起きたことと向き合おうとして、苦しんでるのも分かってた。けど俺にはそれをどうしてやることもでけへんし、するべきでもないって思てたからな。せやからいっそのこと、忙しいのを理由にあえて連絡を取ろうともせえへんかった。だってこれは、おまえが自分で決着をつけな意味のないことなんやし、俺が強引に忘れさせようとしたって無駄やってこと、俺は百も承知やったから。おまえは何でも自分自身で決着をつけな気の済まへん女なんや。それくらい俺かて分かってるつもりや」

「勝也……」麗子は小さく首を振った。「そこまで──」

「もちろん、俺がこんな余裕を見せてられるのも、おまえがきっとええ結論を出してくれるって信じてるからやで。おまえもそう言うてくれてたし、俺もそう感じてる。でないとやっぱり心配で、いくらバテてて、真夜中でも毎日電話してるよ」

 麗子は料理には手をつけず、じっと勝也を見つめたままだった。

「ほら、『押しても駄目なら』って言うやつや」と勝也は笑った。

 麗子は恨めしそうに勝也を見た。「……そんなんじゃないくせに」

「ああ、そうやな」勝也は肩をすくめた。「でも、ひょっとしてその方が効果的かなって思たのは事実や」

 麗子は黙って頷いた。

 店内は客がまばらになってきていた。それもそのはずで、あと二十分もすればラスト・オーダーの時間だ。それでも良かった。二人は充分食べていたし、また飲んでもいた。

「──今日は、髪型を変えてるんやな」

 勝也がぽつりと言った。

「ただ後ろで留めてるだけよ」

 麗子は顔を上げ、にっこりと笑った。

「顔がすっきり見えるし。ピアスも」

「そ……そう」

 麗子はまた下を向いた。はにかんでいると言うより、困惑しているようだった。

「そんな大きいの、いつもは付けてへんやろ」

「……ええ。仕事上俯いて読み書きすることが多いし、邪魔になるから」

 麗子はいくぶん表情を強張らせて言った。

「綺麗や」

「えっ?」

「綺麗やて言うたんや。訊き返すなよ」

「やあね。酔っ払っちゃってるの?」

 麗子はあどけない笑顔になり、思わず勝也から視線を逸らした。

「酔っ払ったからって、口説こうなんて思てへんで」

 麗子はふふっ、と笑った。そして何気なく周囲を見渡して、自分たちの話が聞こえる範囲に人がいないのを確認し、言った。

「ねえ、勝也」

「なに?」

「……二人きりになる場所へ行きたいわ」

「えっ?」勝也は思わず顔を上げた。

「あんたも訊き返したわよ。ちゃんと聞いてないの? それともわざと?」

「いや──」

「二人きりになりたいって言ったのよ。それも、寒空の下じゃなくて、暖かくて、ちゃんと落ち着けるところ」

「麗子……」

「いいでしょ?」

 そう言った麗子の瞳には、勝也に有無を言わさぬ強引さが伺えた。



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