Ⅶ.Golden Earrings

 昨日の仕事帰りに古書店で見つけ、朝から夢中になっていた書物が切りのいいところまで来て、麗子は顔を上げた。目の前に置かれた小さなデジタル時計を見ると、五時三分だった。

 背筋を伸ばし、本を閉じてボールペンのキャップを被せた。そして立ち上がると後ろにあるクロゼットの扉を開き、中の引き出しから何枚かの衣服を出して閉め、部屋を出た。


 浴室から出た麗子はバスタオルで髪を拭きながらキッチンへと入ってきた。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出し、食器乾燥機の中に一つだけ残っていたグラスに半分ほど注いで一気に飲み干した。ふうっと一息つくとシンクにグラスを置き、また髪を拭きながら出ていった。

 部屋に戻った麗子はまたさっきのクロゼットを開けて、今度はハンガーに掛かって並んでいる洋服の一つ一つを手早く見ていった。そしてときどき気になったところで手を止める。彼女は特別衣装持ちという訳ではなかったが、それでも五年近い独り暮らしのあいだに、この造り付けの大きなクロゼットにほぼ一杯になっていたのだった。

 一通り眺め渡したところで、麗子は白い厚手のジャケットタイプのダブルのシャツと、くすんだピンク色の混ざったようなグレイの前開きのロング・スカートを選んでベッドの上に広げた。それらをしばらく眺めたあと、今度は引き出しから白いシルクのブラウスが入ったケースと、焦げ茶、煉瓦色、桜色の三色のスカーフを出してその横に並べた。

 入浴後に着ていたカットソーの上下を脱ぎ、麗子は並べた衣服を身に着けた。

 最後にベルトを締め終え、クロゼットの扉内側にはめ込まれた姿見で全身をチェックし、小声で「よし」と呟くと、乾いた髪を手際よく後ろにかき集めながらドレッサーの前まで来た。そして大きなヘアバンドでまとめると、今度は化粧を始めた。

 普段、仕事に行くときなどはたいていが時間に追われていることもあって十五分もあれば仕上げられるのだが、今日はそうしなかった。かと言って初めて化粧をする中学生でもないので三十分以上も掛かるようなこともなかったが、それでも眉を描いたりアイラインを引いたりするのは、いつも以上に丹念な作業になった。

 やがてそれも終わると麗子は立ち上がり、ヘアバンドを外してもう一度髪をまとめなおし、大きいけれど目立たない黒い髪留めをつけた。そしてドレッサーの隣に置いたスリムチェストの一番上の引き出しを開けて中のアクセサリーをがさごそと掻き回し始めた。

 そこから一組の大きなピアスを手に取った。飴細工のように柔らかな曲線を描いた、少し重そうなゴールドのピアスだった。

 麗子はピアスを右の掌に乗せて、しばらくのあいだ見つめていた。

 それから一つ短い息を吐くと引き出しを閉じ、ドレッサーを覗いて耳に付けた。

 さっきまで本を読んでいたデスクの前に行ってシガレット・ケースやライター、眼鏡ケースなどを大きめのバッグに入れ、腕時計をはめながらもう一度ドレッサーで自分の姿を確認して、麗子はドアのそばのコートハンガーから白いコートを掴んで出ていった。

 階下に下りてそのまま玄関ホールに出るとスリッパを脱ぎ、シューズボックスからスカートと同じ色の踵の低いパンプスを出してきて履いた。そしてコートとバッグを持ち、バッグからキーホルダーを取りだして外に出た。

 門を出て、一つ目の角を曲がったあたりで麗子は自分の歩調が少し早くなっているのに気づいていた。腕時計を見ると六時十五分だった。約束の時間まではあと四十五分だ。それだけあれば、待ち合わせ場所まではゆっくり行ける。それなのに彼女の足は、一時限目の講義に遅れそうになっているときのように速くなっていたのだった。

 なぜなら、今夜勝也に会うのは実に三週間ぶりだったからだ。



 今日に限って、勝也は約束の二十分も前に待ち合わせ場所にやってきた。

 別に日頃の遅刻癖を反省した訳でも、早めに来て麗子を驚かせてやろうと思った訳でもなかったが、彼は六時十分にはすでに西天満署を出て梅田に向かっていた。今日の昼になって突然麗子を誘ったのは彼だったし、そんなときくらいは遅れずに行った方がいいだろうと思ったのだ。

 この二週間あまり、管内で連続して三件も起こったOLだけを狙った傷害事件の捜査本部に入ったせいで、連日帰宅時間が深夜に及び、あるいは徹夜なんかもやったりして、勝也は少しバテ気味になっていた。その犯人をおとといようやく逮捕することができて、今朝の昼前、めでたく送検する運びとなり、勝也は刑事部屋から麗子に電話して、今夜晴れて三週間ぶりに彼女と会うことになったのだ。

 事件に関する仕事を切り上げたのは五時頃だった。そこで勝也は残りの雑用を適当に片付けて、実に二週間ぶりに、出勤したその日のうちに帰途に就くことができたのだった。

 勝也は今、HEPナビオの一階エレべーター付近に立ち、出入口を行き来する人の流れを何気なく眺めていた。

 ここを待ち合わせ場所に選んだのは麗子で、彼女はこのビルにある映画館で上映されている映画を観たいと言ったのだ。勝也は、こんなに早く来れたのなら、麗子が何の映画を観たいのか訊いておけば良かったと思った。そうすれば、今のうちに上へ行ってチケットを買っておくことができるのに。映画などを観るのは本当に久しぶりだったし、麗子の意向を無視してまで観たいと思うものもなかったので、勝也はこのまま麗子が来るのを待つことにした。

 昼間の麗子との電話のあと、勝也は貴志に今夜ここで映画を観ることを話した。映画好きで、女の子とのデートでもしょっちゅう映画を観ている貴志は、このビルの劇場で今どんな映画を上映しているのかを、あたかも自分の親兄弟の名前を教えるようにすらすらと言ってのけた。

 貴志は、「全部観たけど、どれもまあまあってとこだな」と無感情に言い、最後に勝也をちらりと見て、「途中で眠っちまわねえように気を付けろよ」と忠告した。そのくらい、最近のロードショー映画には秀作が少ないらしい。

 まあええわ、と勝也は思った。それより、そのあとどこへ行くかや。食事をするにしても、映画の後だとそう遠くまで足を運ぶ時間もない。どうしてもダイニング・バーのようなところになるなと思いながら、勝也は行き交う人々の平和そうな笑顔を見ていた。


「勝也」

 思いがけず名前を呼ばれて、勝也は振り返った。

 ゆとりのあるディスプレイが施されたショー・ウインドウのずっと向こうに、白いコートを腕に掛けて、バッグの紐を掴んだ麗子が、急ぎ足で向かってくるところだった。いつも肩の上に下ろしている栗色の髪を後ろにまとめて、めずらしくロングスカートをはいている。そのせいか少し歩きにくそうだ。頬を微かに紅潮させ、ちょっと息を切らせてもいる。全体から漂う知的でエレガントな雰囲気は、決して大袈裟でも何でもなく、フランス映画から抜け出てきたヒロインのようだ。勝也はもうすでに一本の映画を観ているような錯覚を覚えた。


 ──この美人は、俺の長年に渡る親友だ。親友から、今は恋人に代わりつつある。彼女は俺を必要としているし、俺もそれ以上に彼女を大事に思っている。彼女は何て綺麗なんだろう。俺は今、初めてそう思った。目で、心で、肌でそう感じた。だから今俺は、彼女がそばに来たら、抱きしめたいと思う。そうしたくてたまらない。なぜなら、彼女は俺を見てあんなに美しく目を輝かせて、俺を見て、俺だけを見て、ただまっすぐ歩いてくることだけに一生懸命になっているからだ。もしかしたら、俺はものすごくラッキーな男なのかも知れない──。


 勝也の前まで来た麗子は、肩を使って大きく息を吐き、嬉しそうな笑みを浮かべながら言った。

「……早かったのね。めずらしいじゃない」

 勝也は何も言わずに麗子を見つめていた。穏やかな顔をしているものの、妙に真面目くさった表情でただじっと見ている。

「勝也──?」と麗子は首を傾げた。「どうかしたの? また事件?」

 突然、勝也は麗子の腕を取って引き寄せ、エレベーターの脇へと連れていった。

「何? どうしたの?」

 勝也は答えなかった。そして彼女の両手を掴んで向き直り、思い詰めたような顔でまっすぐに彼女の目を見て言った。

「──ええか、こんなこと、今しか言わへん。今思ったから、一回だけ言う。そのあとにおまえに何か答えてもらおうなんて、そんなことも思てへん。みんなに優柔不断やとさんざん言われてる俺がはっきりと言うんやから、ちゃんと聞いとけよ。笑わんとな」

 麗子は勝也のただならぬ勢いに驚いていた。そしてぐっと息を呑むと、覚悟しましたとでも言うように勝也を見つめた。

「分かった。何でも言って」

「俺──」

 と、勝也は口を開くとぱっと下を向いた。麗子はむっとしたように口を結んだ。

「もう、そうなっちゃ駄目なのよ。言いなさいよ」

「……俺、心底おまえのことが好きや」

「え?」

 勝也は顔を上げた。「おまえの気持ちが今どう揺らいでいようと、俺はもうおまえ以外は考えられへん。俺は絶対におまえでないと嫌やからな」

「勝也──」

「そんな勝手なって言われても、ほんまにそうやねん。今、それがはっきり分かったから、ちゃんと言うとく」

「……分かったわ」

 今度は麗子が俯いて、こくりと頷いた。

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