Ⅵ.Day By Day

 それからしばらくのあいだは二人ともそれぞれに仕事が忙しく、時間を作って逢うことができなかった。

 恋が始まったばかりの時期というのは毎日でも相手の顔が見たいし、一緒にいたいと思うものだ。それができない二人は、代わりに電話で語り合った。

 恋愛の常套手段である。


 一日目。長い勤務からそろそろ解放されようとしている勝也から、自宅の書斎で学年末試験の問題を作成中の麗子に電話があった。

「はい、三上です」

《あ、俺……》

「あら。どうしたの?」

《別に。ちょっと声が聞きたくなって──》勝也はもどかしげに言った。《何してた?》 

「テスト問題を考えてたの」麗子はほっと息を吐いた。「今、アパートから?」

《いや、仕事場から》

「こんな時間に、まだ?」午後十一時五十分だった。

《ああ。もうちょっとで終わる》

「いいの? のんきに電話なんかしちゃって」

《ちょっとぐらいええんや》

「そこの電話代は税金よ」

《俺が掛けてるのはロビーの公衆電話や》

「いい心がけね」

《でも、電話代が税金で支払われてるからって言うんやないで。何しろ隣の席は芹沢やからな》

「彼ならいいじゃない」

《ええことないよ。あいつ、人のことからかうの、好きやから》

 麗子はふふっ、と笑った。

《麗子》

「なあに?」

《ゆうべは悪かったな》

「……いいのよ。って言うか、謝らなけりゃならないのはあたしの方なんだし」

《俺──やっぱり焦ってるんかな》

「どうして?」

《うまいこと言われへんけど……その……》

「モタモタしてたら、あたしの気が変わると思った?」

《いや、そんなこと──》勝也は口ごもった。《──うん、やっぱりそうかな》

「ゆうべも言ったけど、あたしがまだ何かにこだわってるってことは認めるわよ。でも、それで気が変わるなんてことはないわ」

《気が重いか?》

「ううん」

《もしまた元の友達に戻ったら、おまえは楽になるのと違うか?》

「そんなはずないじゃない。勝也、どうしていつもそう考えるの?」

《長かったから。今までが》

「確かにそうだけど──でも、それがあるからこそあたしは関係が変わってもうまくやっていけると思ってるのよ」

《それで実際はどうや? うまくいってるか?》

「だから何度も言ってるじゃない。今のあたしの迷いは、あんたには関係のないところで生まれてるって」

《真澄のことは、俺が原因やろ》

「確かにね。でも、彼女のことであんたがするべきことはもう何もないはずよ。あとはあたしの中での問題。真澄にも無関係よ」

《でも──》

「ねえ。少し疲れてる?」

《ああ、たぶんな》

「だったら、もうこのことは考えないで」

《考えようと思って考えてるんやないよ。でも、気がついたら考えてるんや。それが当たり前やろ?》

「分かってるわ。でも、そのことがあんたを悩ませてると思うと、それだけで──」

《ますます気が重くなるんやな》

「もうよしましょうよ、勝也」と麗子は溜め息をついた。「頭で考えてばかりいるのは」

《……そうやな》勝也も溜め息を漏らした。

「大事なのは気持ちでしょ?」

《せやからこそ、俺はおまえの態度を尊重してるんや》

「ごめん」

《ええんや。何だかんだ言うても、俺には必要やから。おまえが》

「うん」

《ほな切るよ。これ以上喋っててもおまえを追いつめるだけのような気がしてきたから》

「そんなこと言わないでよ」

《何で》

「素直じゃない女だって、愛想尽かされたような気がしてくるじゃない」

《ああ、その通りや。おまえはほんまに素直やないよ》

「勝也ったら」

《切るよ。もっとひねくれた連中の相手が待ってるから》

 勝也は笑いながら言うと電話を切った。

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