そのあと二人は市内のたからヶ池がいけから岩倉いわくらのあたりを車で回り、さらには雪のちらつく鞍馬くらままで足を伸ばした。それから戻ってきて北山きたやまで食事をしたあと、少しだけ夜の京都を歩いて、大阪に戻ってきたのは夜の十時を半時間近く回った頃だった。

「寄って行けよ」

 アパートの玄関先に車を寄せ、サイドブレーキを上げただけでエンジンを切らずにいる麗子に勝也は言った。

「明日も仕事でしょ?」と麗子は作り笑いを浮かべた。

「もう遅いし」

 勝也はじっと麗子を見つめていたが、やがて苦笑いをしながら俯き、そしてすぐに顔を上げた。

「用心深いな」

「別に──」

 麗子の視線はフロントガラスの向こうを見ていた。不安のような期待のような、何とも複雑な戸惑いの気配を漂わせていた。

「ええよ、無理せんでも」と勝也はドアを開けた。

「無理してないわ」

 そう言うと麗子はエンジンを切った。「じゃあ……ほんとに遅くなるといけないから、少しだけ」


 部屋に入ると勝也はキッチンのシンクで手と顔を洗い、冷蔵庫からコーヒー豆とミネラルウォーターを取り出してコーヒーを淹れ始めた。麗子はしばらくぼんやりと立ち尽くしていたが、やがてリビングのロー・テーブルの前に腰を下ろすと、バッグから煙草を取り出した。

「酔い醒ましにコーヒーがいいって言うの、あれはでまかせだって知ってた?」

 麗子が言った。

「そうやろうな。気分的なもんやろ」

「一時的にはしゃきっとするかも知れないけど、それで酔いが醒めるなんてことはないものね」

「俺はあかんな、コーヒーくらいでは」

 勝也はカウンターを回って出てきた。他愛もない話はそれ以上は続かず、かと言って何も言わずに麗子の隣に座る勇気もない彼は、その場で突っ立っているだけだった。

 煙草に火を点けようとしていた麗子が勝也を見上げた。

「どうしたの?」

「いや……」

「まさか、煙草を吸う女が嫌いって訳じゃないわよね?」

「今さらおまえにそんな馬鹿げた注文せぇへん」

 麗子はにっこりと笑った。「あんたといると安心。何を気取る必要もないんだもの」

 勝也は笑わなかった。諦め顔で溜め息をつき、小さく首を傾げた。そして重い足取りで麗子のそばまで来ると、足をかばいながらゆっくりと腰を下ろして彼女を見つめた。

「あんまり嬉しくないな」

「……そうよね。ごめんなさい」

 麗子は頷きながら煙草を元に戻した。そして悪戯を咎められている子供のように頼りなさげな表情で勝也を見上げると、瞳の端に微かな憂いをたたえて微笑んだ。

 おいおい、まいったなと勝也は思った。そんな顔で見つめられると俺は──。

 勝也は麗子の背中にそっと手を添え、少し首を傾けてゆっくりと顔を近づけた。

 唇が重なると、麗子も勝也の腕に手を掛けて、そのまま肩まで辿らせていった。

同時に勝也の手が麗子の腰に伸びて、彼女の身体は彼に引き寄せられた。

 長かった最初のときよりもまだ長い、二度目のキスだった。

 やがて顔を離した二人は微笑み合った。麗子は恥ずかしそうに俯いて、勝也はその額にキスをした。

「帰らなきゃ……」

「何で? 今来たばっかりやないか」勝也は麗子の耳元で囁いた。

「もう遅いわ」

「来たときから、遅かった」

 そう言うと勝也は麗子の首筋に唇を寄せた。 「……泊まって行けよ」

 勝也に強く抱きすくめられて、麗子は身動きができなかった。彼は思ったよりキスや抱擁がうまく、麗子は思わずすべてを委ねそうになった。今や恋人同志である二人にとって、それはごく自然な流れだった。しかし──

「勝也」

 麗子がそう言い終わるか終わらないかのうちに、勝也の右手が彼女のジャケットの襟元に入って来て、ブラウスのボタンを外し始めた。

「ねえ、待って──」

「嫌や」

 勝也は短く言うともう一度麗子の唇を塞いだ。ボタンを外していた手はさらに中へと入り、キャミソールの上から麗子の柔らかな胸に触れた。

 麗子は全身を硬直させた。今はどうしても駄目だったのだ。

「──お願い、やめて」

 麗子の哀しい声で勝也の手が止まった。そしてゆっくりと彼女の身体から離れ、彼の膝の上に落ちた。

「ごめんさない……」

 麗子は胸元をかき寄せた。

「いや、俺が悪いよ」

「この期に及んで、何を今さらって思ってるでしょ。初めてでもないのにって」

「そんな言い方するなよ」

「もったいつけてるんじゃないのよ。ましてあんたが嫌なわけでも決してないの。ただ──」

「ただ?」

「何だかあたし……まだこだわってるみたいなの」

「前の相手か?」

 勝也は初めて麗子の前の男のことを口にした。

「分からない──ううん、違うと思う」

「……真澄のことやな」勝也は溜め息をついた。

「そうかも知れないわ。でも、はっきり分からないのよ。本当に」

 麗子はすがるように勝也を見つめた。「ねえ、分かって。あたし、あんたのことは本当に大事にしていきたいのよ。勝手な話かも知れないけど、ちゃんと気持ちが向いてないのに簡単に進めたくないの。そうでないと、また簡単にこわれちゃいそうで──」

「何か言い訳がましいな」と勝也は苦笑した。

「そう思われても仕方がないわ。でも、勝也と初めてそうなるときのこと、あたしずっと覚えておきたいから」

「麗子……」

「そうでしょ? やっぱり」

「ああ、そうやな」

 勝也の言葉に、麗子は目を閉じて頷いた。

「なあ麗子」

「何?」

 勝也は意味ありげににやにや笑い、落ち着いた声で言った。

「おまえ、思ったよりオッパイ小さいな」

「もう!」

 麗子はぱっと顔を赤らめ、両手で拳をつくって振り上げた。勝也はくすくすと笑いながらその手を受け止めると、静かに自分の膝の上に下ろして麗子を見つめた。

 麗子は目頭が熱くなるのを感じて俯き、ゆっくりと勝也の胸に身体を預けた。

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