三日目。十時頃帰宅した勝也のところへ、今度は麗子から電話が入った。

《お帰りなさい》

「よう分かったな。今帰ったばっかりやて」

《十五分ほど前にも掛けたの》

「留守電に入れといてくれたら、こっちから掛けたのに」

《特別な用件のない時にメッセージ入れるのって苦手なの》

「おまえらしいな」

《色気がないってことね》

「どうした? 機嫌が悪そうやな」

《……今日、嫌なことがあったわ》

「大学で?」

《あそこでしか嫌なことはないわ》

「仕事なんて、嫌なことの繰り返しや」

《ねえ。あんたは刑事を辞めたいって思ったことある?》

「毎日とは言わへんけど──しょっちゅうあるよ」

《きつい?》

「少なくとも大学の先生よりはキツイと思うで」

《そうよね。あたしったら、バカみたい》

「話してみろよ。何があった?」

《……うちの学部には、毎月、定例の教員会って言うのがあるの。教授から講師まで、講義を担当している全員が出席することになってるんだけど、今日が今年度の最後の定例会だったのよ》

「うん」

 勝也は右足を強く曲げないように気遣いながらベッドに横たわった。

《そこで、思いもかけないことを言われちゃったわ》

「何て?」

《会議の終わり頃に、ある準教授が言い出したの。『先生方の中には、実力以上の評価を受けて現在の地位に就かれているばかりに、それを死守しようと色仕掛けで学生たちの機嫌取りをしておられる方がいらっしゃるようですが、これはゆゆしきことです』って》

「何やそれ?」勝也は思わず苦笑した。「おまえのことやって言いたいんか?」

《直接あたしを名指しして言った訳じゃないけど──色仕掛けなんて、女のあたしにしか当てはまらないことだわ。他はみんな中年男だもの》

「それって、セクハラやないんか」

《微妙なところね》

「考えられへんな、教育者のくせに」

《しかも法律家よ》

「他の連中の反応は?」

《みんなただ黙ってあたしを見てたわ。中には変に納得したように頷いてたのもいたけど》

「それでおまえはどうした」

《何も言わないわ。呆れ返っちゃって、終わるとすぐに退席してやったわよ》

「そこがまた気に入らんのと違うか。可愛げがないって」

《あんたはそう思うの?》

「いいや」

《確かに、あたしは学生たちに講義内容や人柄以外のところで支持を得てるところがあるのは認めるわ。でも、一度だってそれを自分から売り物にしたことなんてないのよ、そんなことするはずないじゃない》

「先生方は知らんのやな。おまえが容姿で判断されるのを極端に嫌ってるってことを」

《若いってことも、彼らには不満なんだろうけど》

 ここで麗子は言葉を切った。

《ただね。確かにあたしが講義を二つも受け持つには、時期尚早で、しかも充分な実績を作ってないっていう懸念がなかったとは言えないのよ》

「そうかな」

《分からないけど……》

 と麗子は溜め息を漏らした。《あんなこと言うくらいだったら、最初から意地でもあたしの就任に反対すればよかったのよ。それを今さら──》

「きっとおまえがちゃんとやってるから、余計に腹が立つんやろ。ええ加減なことしてたら、もっと正面から批判してくるよ。それこそ名指しで」

《何だか、一生懸命やってるのが馬鹿らしくなってきたわ》

「意外とそれが向こうの狙いなのかも知れんぞ」

《そうなのかしら》

「まあ、オヤジ連中のみっともないジェラシーやと思って、聞き流すんやな」

《勝也は、自分がそんな目に遭ったことがないから、そんな風に言えるのよ》

 麗子は不満げだった。

「それがそうでもないんや」

《どう言うこと?》

「キャリアや内勤の連中と違って、ずっと捜査畑でやって来た現場の刑事は、巡査部長っていうたらたいがいが三十も半ばを過ぎてるのが普通なんや」

《へぇ、そうなの。知らなかった》

「朝から晩まで仕事に明け暮れて、自分の時間なんてないからな。二十代で昇格するのはまず難しいって言われてる」

《勝也は、いつ昇格したんだっけ?》

「府警に入って二年目。二十五歳の時」

《また特別早かったのね》

「新米のくせに、名目上はあくまで部長刑事や。課長も困ってたよ、どう扱ったらええか」

《当然、みんなには妬まれるわけね》

「俺の場合は、親父がよそで署長やってたやろ。まずは七光りってことから言われた」

 勝也はその時のことを思い出しているかのように眉をひそめた。

「ひどいヤツなんか、親父を通じて試験問題の漏洩があったなんて話をでっち上げて」

《勝也のお父さまが聞いたら、激怒されたでしょうね》

「おまえの場合と比較にならへんほど俺は実績ゼロやったから、何を言われてもただ黙ってるしかなかった。早よ犯人を挙げてやろうと思って、かえって空回りして」勝也は小さく笑った。「今考えたら、ずいぶん滅茶苦茶なことしたよ。芹沢ともぶつかったし」

《今はどうなの?》

「いまだに言われてる。さすがに露骨な陰口は聞こえてきいひんけど──ほら、去年中之島で会うた制服が『巡査部長』って俺のことを呼んでたやろ。あれ、ただ階級で呼んだのと違うんや。『あんたは刑事長やない』って意味で誰かが呼び始めたのが、いつの間にかみんなに浸透してるんや」

《怒らないの?》

「もうそんな気も失せたよ。今ではうち班の先輩が代わりに怒ってくれてるけど、俺は聞き流すことにしてる。だって、巡査部長には違いないんやからな」

《いちいち憤慨してる暇もないってところね》

「ああ。それに俺は男やから、セクハラまがいの目に遭うことはないし。その点では助かってるよ」

《嫌味言われて、寝る暇を削って犯罪者を追いかけて、おまけに大怪我までして。何だってそんなきつい仕事を選んじゃったの?》

「さあ、分からん」

《血統かしら、やっぱり》

「俺はそれを言われるのが嫌なんや。おまえが美人やって言われるのを嫌うみたいに」

《……そうだったわね、ごめん》

「ええよ」

 麗子がずいぶん素直なので、勝也にはちょっと意外だった。そして言った。

「普通の会社員になるのが嫌やったし、普通の公務員もつまらんかったやろな。だって、普通のサラリーマンが、仕事絡みで会うた初対面の相手に、十分後に殺されかけるなんてことは絶対にないやろ? 刺激的やと思わへんか?」

《何言ってるのよ?》

 と麗子は厳しい口調で言った。《冗談のつもり? だったら相当ひどい出来ね》

「あれ、あかんか」

《当たり前でしょ。それでなくたって、あたしはあんたがまたいつあんなことになりはしないかって、毎日気が気じゃなくて、ハラハラしてるんだから》

「へえ……心配なんや」

《だから、当たり前でしょって言ってるじゃない》

「いつからそんなことを?」

《さっき言ったお巡りさんに会った日よ。あんた勤務中で拳銃を持ってたでしょ。それを聞いたときから》

「そんなこと、今に始まったことやないのに」

《あのとき、弾は入ってなかったの?》

「ああ、たいがいは空砲や。けどこの前刺されてからは、場合によっては入れてるときもある」

《最近は、銃を使った犯罪が激増してるって言うけど……勝也の管内でもそうなの?》

「もうええやないか。言うたらまた心配するんやろ?」

《明日にでも内勤に異動願いを出してって言うかも》

「そんなことするくらいやったら、それこそ普通のサラリーマンになってるよ」

《だったら、明日から毎日電話して》

「毎日?」勝也は思わず訊き返した。「そういうの、俺には無理って知ってるやろ?」

《……そうだったわ》麗子は溜め息をついた。《じゃああたしが掛けるわ。構わないでしょ?》

「ええよ」

《じゃ、もう切るわ。あんたのおかげで気持ちも晴れたし》

「うん」

《明日いつ電話が掛かってくるか、楽しみにしててね》

「まあ、な」

《じゃあね。おやすみなさい》

「おやすみ」

 そう言って勝也が受話器を戻そうとしたとき、向こうで麗子が彼を呼ぶ声が聞こえた。

《あ、勝也》

「え?」

 勝也は再び受話器を耳に当てた。

《あのね、あたし──》

「うん」

《この頃、よく分かってきたの。やっぱりあたしにはあんたしかいないってことが》

「そうか」


 ──俺には最初から分かってたよ。勝也は心の中でちょっと得意になった。


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