Ⅳ.The Shadow Of Your Smile

 『針のムシロ』とはあんなことを言うんやな、と勝也はこの日のことをあとでそう思った。


 正月の三日、芦屋の麗子の家に勝也と豊、そして真澄の四人が集まり、新年会をやることになっていた。これはクリスマスよりも前から決まっていたことだった。

 勝也は自他共に認める料理上手だったので、他の二人よりも一時間ほど早くに麗子の家を訪れ、事前に麗子に用意しておくように頼んでおいた食材を調理し始めた。

 麗子は朝、真澄から連絡があって、おせち料理を持参するので勝也には違ったメニューを用意してもらいたいと言ってきたと彼に伝えた。勝也はいくら自分が料理に自信があるからと言ってまさかそんなに本格的な正月料理が作れるとは思っていなかったし、代わりにオードブルや比較的あっさりとした中華料理を用意した。

 そこへまずやってきたのが真澄だった。

 大学を出てから自宅で茶道と華道を教えている彼女は、洋服よりも落ち着くという着物を着ていた。慌てていたから滅茶苦茶な着付け方になってしまったと言って彼女ははにかんだが、正月らしく松竹梅の絵と部分的に豪華な絞りをあしらった抹茶色の訪問着にすっきりとしたデザインの袋帯をきちんと締めた姿は艶やかで、引き締まっても見えた。そしてその格好で立派な三段の重箱を持ち、さらには根びき松や千両、すかし百合などの花材と大きな花器まで運んできたのだから麗子と勝也は仰天した。

 しかしそこはさすがに開業医の娘、何と京都からタクシーで来たと言う。勝也はそれを聞いて、やっぱり自分がこんなお嬢様とつき合ってもきっと手に余るに違いないと思った。

 真澄より二十分ほどあとに豊が現れた。手に持った綺麗な包装の年代物のワインは、暮れにワイン専門店で見つけた掘り出し物だという。下戸のくせにワインにはちょっとうるさい麗子は大喜びで受け取った。


 こうしてほぼひと月ぶりに四人が揃い、宴会が始まった。麗子と真澄は今までと何ら変わることなく仲良く振る舞っていた。すべての事情を分かっている勝也から見れば麗子の方が真澄に対して少し遠慮がちに接しているようにも思えたが、だからと言って自分までがそれを気にしていては余計に話がややこしくなる。勝也は努めて平静を装い、そしてその代わりできるだけ麗子には話しかけないようにしていた。

 そして豊もまったくいつも通りだった。失恋したばかりで、しかもその相手が目の前にいるという辛い立場の真澄を特別気遣う様子もなければ、決してその種の話題に触れることもなかった。さすがにバツイチ、自分とは修羅場の数が違うんやろなと、勝也は勝手に豊に感心していた。

 そして彼はまだ麗子と勝也のことを知らなかったので、その二人に対してももちろん普段通りに接していた。

 ところが、この一見いつも通りだが実は多くの偽りに包まれた状況を打ち破ったのは、意外にも真澄だった。

 まず、何も知らずに最初にネタを振ったのは豊だった。

「──麗子、それで結局今年も正月は一人やったんか」

「そうよ。両親はボストンだったし」

「おまえが行ったらええやないか」

「いやよ。この時期空港がどれだけ混み合うか、あんたも海外生活してたんだから知ってるでしょ?」

 と麗子は顔をしかめた。「それにお正月って言ったって、どうせすぐに大学が始まっちゃうんだもの。その準備もあるから、結構忙しいのよ」

「まったく、淋しいもんやな、おまえみたいな美人がクリスマスも正月も一人で、仕事に追われてるなんて」

 豊は言うとちょっと意味ありげに笑った。「言うてくれたら、俺が相手してやったのに」

 その頃になると勝也はこの状況にすっかり馴れてしまっていて、豊がそんなことを言っても気にせずに、ただにやにや笑って聞いているだけだった。

 そこで──

「あれ、何言うてんの萩原さん」

 少し酔いの回ったらしい真澄が口を挟んだ。

「麗子にそんなこと言うたら、勝ちゃんが気ィ悪うしはるよ」

「え?」

 ──遂に来たで、と勝也は下を向いて目を閉じた。

「真澄、いいのよ」と麗子も大慌てで手を振った。

「だって──」

「何やそれ?」

「何でもないのよ、豊」

 と麗子は思いきり笑顔を造った。「今の話、ほんと? だったら惜しいことしちゃったかも」

「麗子まで何言うてんのよ。勝ちゃんの前で」

 真澄はさらに言った。潔癖性で、人一倍正義感の強い彼女ならではの言葉だった。

「勝也? 何で勝也に関係があるの?」麗子は実に苦しそうだった。

「あれ……もしかして、あれ?」

 真澄はちょっとまずいことを言ってしまったかなと言うような表情で三人を見回し、麗子に振り返った。

「まだ言うてないの?」

「言うてないって、何をや」豊が訊いた。

「何でもないったら」

 麗子は少し向きになりかけていた。そして斜め向かいの勝也に鋭い視線を向けた。その目が、(あんたも何か言いなさいよ)と言っているのが、勝也にはよく分かった。

「麗子、あたしに気なんか遣うことないのよ」真澄が言った。

「でも──」

 麗子は困り果てていた。もう一度上目遣いで勝也をちらりと見ると、勝也はさっと目を逸らせた。……あっ、この卑怯者。

「何なんや、いったい。二人とも、さっきから何を訳の分からんこと言うてるんや?」

 豊はそう言って隣の勝也に振り返った。「どうやらおまえがなんか知ってるみたいやな」

「あ、俺ちょっとトイレ──」勝也は腰を上げて逃げの態勢に出た。

「逃げるなよ」

 豊はすかさず言って勝也を引き留めた。「往生際の悪いやつやな」

「……俺は別に何も言うことはないよ」

「勝ちゃん、ちゃんと萩原さんに言うたらええやない」

 真澄がにこにこ笑って言った。「麗子とは相思相愛で、つき合うことになったって」

「ええ?!」豊は声を上げた。「ほんまか?」

「真澄……」勝也は溜め息混じりで呟いた。

「鍋島、ほんまか」

 勝也は肯定も否定もしなかった。今さら否定するわけにはいかないのは重々承知していたが、かと言って呑気に「はいそうです」という気も起こらなかった。情けない話だが、どうすればいいのかまるで思いつかなかったのだ。

「……なるほどな」

 豊は納得したように頷いて麗子を見た。「これで分かったよ。おまえがわざわざ仕事中の俺を呼び出してまで、意味不明の発言を繰り返してた訳が」

「……意味不明で悪かったわね」

 麗子は吐き捨てるように言うと俯き、唇をきつく噛みしめた。

 どうやらこんな形で勝也とのことが萩原に知れるのが、極めて不本意らしい。

「水臭いな、おまえら。何をそんなに躊躇ためらってたんや?」

「……躊躇わへんはずがないやろ」勝也が真顔で言った。

「あ──そうか」

「あたしのことが気になってたの?」真澄が笑いながら訊いた。

「気になるわよ、当たり前でしょ?」

 麗子が顔を上げ、口調を強めた。「あたし、そんな勝手な女じゃないわよ」

 麗子のその剣幕に、真澄は驚いた顔で肩をすくめた。

「あら……そうなん?」

「真澄ったら──」

 麗子は淋しそうな目で真澄を見つめた。

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