あと十五分ほどで新年を迎えようとしていた大晦日の夜、勝也は刑事部屋の隅でコピーを取っていた。

 部屋には貴志と二人だけで、コピー機の給紙の音だけが並んだデスクに染み込んでいく。この場における限りでは、静かな夜だった。

 突然、静寂を切り裂く電話の音。貴志が書類に視線を落としたままで受話器を取った。

「──刑事課」

 勝也はコピー機に向かったまま耳をそばだてた。頼むから、今夜だけは事件は無しにしてや──。

「──ああ、うん、そう、俺だよ。こんばんわ」

 明るくなった貴志の声を聞いて、勝也はほっとした。どうやら彼の数多いガールフレンドの一人のようだ。……ふん、女たらしめ。

「──ちょっと待ってて。鍋島と代わるから」

「ええ? 俺か?」

 勝也は驚いて振り返った。

 貴志は目を細めて薄笑いを浮かべ、勝也をじっと見つめると言った。「野々村さんだ」

「え、ああ……うん」

 勝也は曖昧な返事をした。まだ完全でない足を僅かに引きずり、ゆっくりとデスクに戻った。そしてまるで割れ物を扱うように受話器を受け取ると、本当に何かが喉に詰まっているような重い咳払いをしてからゆっくりと息をはいた。

「──もしもし」

《勝ちゃん?》

 真澄の声は明るかった。

「ああ、う、うん」勝也は俯いた。「よう分かったな。今夜は仕事やって」

《うん。勝ちゃんこの前そう言うてたから》

「あ、そうやったな」

 電話の向こうで真澄が微かに笑ったのが分かった。どうやら少し酒を飲んでいるようだった。

《今までね、麗子と話してたの》

「そうか」

《麗子、あたしのこと気にして電話してきてくれたのよ》

「うん」

《勝ちゃんも心配してくれてるんやってね。あたしのこと》

「……当たり前やろ」と勝也は言った。「悪いのは俺なんやし」

《何が?》

 真澄は即座に訊き返した。《何で勝ちゃんが悪いの?》

「せやかて、俺がいつまでもはっきりせえへんかったからおまえに辛い思いを──」

 そこまで言うと勝也は隣のデスクの貴志をちらりと見た。貴志は何食わぬ顔で報告書の作成に取り組んでおり、こちらの話に取り立てて興味も示さなければ特別遠慮する様子もない。そこが彼らしいところだった。

《それは違うわよ》真澄は強く言った。《お願いやから、そんなことだけは言わんといて》

「でも……」

《あたし、年が明けたらお見合いするの》真澄は明るく言った。

「そうなんか」

《でも、これは前から決まってたことよ。勝ちゃんに断られたからするのと違うの》

「ああ、分かってる」

《そやから、もうあたしのこと気にせんといてね》

 勝也は何も言えないでいた。真澄がそんな軽い気持ちで自分を想っていてくれたのではないことが、彼にもよく分かっていたからだ。

《ほんとよ》

「うん。ちゃんと分かってるよ」

《それやったら……ええの》

 ここで突然真澄は涙声になった。《それだけが言いたかったから……切るね》

「あ、あの、真澄」勝也は慌てたように言った。

《何……?》

「その……ほんまにごめんな」

《ううん》

 そう言うか言わないかで、真澄は電話を切っていった。

 勝也はゆっくりと受話器を耳から外し、静かに戻した。思わず長い溜め息が出た。

「──ひでえ男だな、おまえは」

 頬杖を突いて報告書を読み返していた貴志がぽつりと言った。

「えっ……」

「謝るなんてよ」

「けど──」

「それじゃあ向こうはいつまでたっても引きずっちまうぜ」

「そんなこと言うたって……」

「そんなときはわざとケロッとして、もう済んだことだって感じにした方がいいんだよ。薄情だと思われてもな」

「……そうかな」

「そうさ」

 貴志はここで初めて勝也を見た。「汚ねえよ」

 勝也は俯いて溜め息を漏らした。しかやがて思い直したようにまっすぐに顔を上げると、半ば自棄になって言った。

「しゃあないやろ。俺にはこんなやり方しかでけへんのやから」

「それでいいと思ってんなら、そうすりゃいいさ」

 貴志は鼻で笑った。「俺には偽善者にしか見えねえけどな」

「偽善者──」

 貴志にそう言われて、勝也はちょっとショックを受けた。すとんと肩を落とし、疲れ切ったような足取りでデスクを離れるとコピーに戻った。

 年が明けたのはその瞬間だった。







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