Ⅲ.I Can't Get Started

 たいていの企業や役所がこの日を最後に年末休暇に入る二十八日、勝也とコンビを組む芹沢貴志せりざわたかしが一足先に休暇を終えて出勤してきた。


 朝、勝也が刑事部屋に着いた時には、貴志はすでにデスクで仕事に取りかかっていた。

「留守にしてて悪かったな」

 勝也が近づいていくと、貴志は手許から目を上げずに言った。きりっと引き締まった眉に涼しげな瞳、女性が羨みそうな優しい曲線の唇をした、端整な顔立ちの男だった。少し色白なところが神経質にも見えたが、その反面、先がやや上向き加減の筋の通った鼻がいかにも生意気そうだ。179cmの長身は肩のあたりががっしりとしており、白とグレイのストライプのシャツ、黒のパンツ、そして座っている椅子の背に掛けた黒のジャケットタイプのブルゾンというその出で立ちは、警官には不必要な着こなしと言えた。年齢は二十七歳、勝也と同時期に西天満署に配属になった巡査部長だ。

「どうやった、親父さんの具合は」

 勝也は椅子を引きながら訊いた。

「ああ、ずいぶん良くなってた」

 貴志はあまり意に介さないように答えた。彼の実家は福岡で酒販店を営んでおり、二ヶ月ほど前に腰を痛めて動けなくなった父親の様子を伺うために、彼は休暇を取って実家に戻っていたのだ。

「クリスマスと正月準備のせいで大忙しでよ。姉貴にさんざんこき使われたぜ」

 と貴志は首を振った。「配達が遅れると客に文句言われるんだ。おまけにそいつら、俺をバイトの店員だと思ってやがるんだ。『若旦那の方がよかね』なんてさ」

「そらごくろうさん」

 貴志は面白くなさそうに勝也を眺めた。「……ま、こっちでお巡りやってるのもそこそこうんざりだけどよ」

「そう言わんと、せいぜい頑張って報告書書いてくれよ。俺はもうギブアップ。それこそうんざりや」

「そこまで言うほど片付けられてねえじゃねえか。だいいち、おまえのその足じゃみんなの邪魔になるだけだぜ」

「まあな」勝也はつまらなさそうに俯いた。

「それより、ここでせっせと書類書いてりゃ、時間が来たらはい終わりなんだぜ。日頃の重労働を思えば、たまにはこんな時もなきゃな」

 そう言うと貴志は何かを思い出したようににやりと笑った。「スタミナはプライべートにとっとかねえと」

「またか。おまえはそればっかりや」

 勝也は眉間に皺を寄せて貴志を見た。「俺はおまえみたいに大きくモラルの欠落した人間とは違うからな」

「どうぞ。何とでも言えよ」貴志は余裕を見せて言った。「それじゃあ、そのモラリストの鍋島くんのクリスマスはどうだったのか、聞かせてもらおうじゃねえか」

「えっ──」

「どうだったんだよ、お嬢さんとは」

「どうって、別に」

 勝也は肩をすくめ、ワークシャツのポケットからミントタブレットを取り出した。

「夜景を見て、ドライブして、食事した」

「それだけか?」

「それだけって──充分愉しんだよ」

「次の約束は?」

 勝也は手のひらに出したタブレットを口に放り込むと、黙って首を振った。

「断ったのか、やっぱり」

「……ああ」

「おまえには重いか」

「よう分かるな」

「何となくそうじゃねえかと思ってたけど──おまえに対する彼女の気持ちが、俺みたいなかやの外の人間にもよく分かったからさ。おまえだったらきっと応えてやるもんだと」

「こっちの気持ちが前向きと違うのに、相手が想ってくれるからってええ加減なことはようせん」

「まあ、そこがおまえのお堅いとこだな」

「相手がちょっとでも気のある素振りをしたら、とりあえずはGOって言うおまえとは違うんや」

「はいはい、分かったよ」

 貴志はうんざりしたように言うと報告書を引き寄せ、ペンを持った。「しょせんおまえと俺は違うんだ」

「……ああ」

「あれ、どうしたんだよ、急におとなしくなっちまって」

 と貴志は勝也に振り返った。「そう責任感じることねえだろ。おまえの言うとおり、しょせんは気持ちの問題なんだからよ。片方だけじゃ駄目なんだって。両方にその気がなけりゃそれまでさ」

「ほんまにそう思うか?」勝也は神妙な顔で貴志を見つめた。

「何だよ。俺だって、嫌がる女と無理矢理ヤっちまうような真似はしねえよ」

 貴志は憮然として言った。「おまえ、俺を強姦魔みてえに思ってるんじゃねえのか?」

「違うよ、おまえのことやないって」

「じゃあ何だよ」

「気持ちがお互い前向きやったら、誰が何と言おうとそれを通すべきやと思うかってことや」

「何が言いてえんだよ? だから、おまえとあのお嬢さんはそうじゃなかったんだろ? だったら仕方ねえよ。それ以上誰も何も言うもんか」

「そうやけど……」

 貴志は何かをひらめいたように顔を上げた。「──分かった。三上サンのことだな」

「えっ」

「このことがもう伝わってるってわけか」

「……ああ……」勝也はいよいよ追いつめられた気分になった。

「彼女のことだから、怒ってたんじゃねえの」

「……そうでもなかったけど」

 そう言いながら勝也は、麗子に自分の気持ちを打ち明けたとき、彼女に平手打ちを食らったことを思い出した。

「彼女も分かってたのかもな。おまえにはあのお嬢さんが重いってこと」

「あのな、芹沢──」

「何なんだよ、だから」

 貴志はうっとうしそうに手許から顔を上げた。「相変わらずはっきりしねえな、おまえは」

「言うよ、はっきり」勝也は少し口調を強めた。

「さっさと言えよ」

「俺が真澄の気持ちに応えへんかったのは──」

「彼女がおまえの趣味じゃなかった」貴志はすかさず言った。「何だかんだ言ったって、要はそういうことなんだよ」

「いや、だから、それだけやないんや」

「いいじゃねえかそれだけで。おまえが何を心配してるのか知らねえけど、俺はまるで部外者なんだし、ちゃんとした事情を知っとく必要なんかねえだろ。誰が誰とどんなことになろうと、俺の態度に何も変わりはねえ。それでいいだろ?」

「ああ、まあ……な」

「それより、こういう経験がおまえより少しばかり多い俺が言っときたいのは、おまえがいつまでもそんな風にしてちゃ、お嬢さんは余計にしんどくなるってことさ。冷てえようだけど、とにかくおまえはもう何も考えるな」

「いや、だから俺がおまえに言うときたいのは──」

「悪いけど、あとはもうそっちで勝手にやってくれねえかな」

 貴志はそう言って勝也に冷たい視線を向けた。「俺は興味ねえよ」


 ──そう、確かにそうや。俺はいったい何が言いたいんや? 何をどうしようとしてる? 俺が誰とどうなろうと、こいつには関係のないことなんや……。


 勝也は大きく溜め息をついた。





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