第12話 週末英語勉強
翌朝、結局いつもと同じ7時に目が覚めた。
まだ頭はぼーっとしていたが、昨日履いていたスカートに着替えると、ベッドで眠る仁を起こさないよう、仁の家を後にした。
せっかくの週末を少しでも無駄にしたくなかった。
家に帰り、洗面所で自分の顔を見ると、まぁひどいもんだった。
水で落とせるマスカラは、昨日寝る前にティッシュで拭き取っていたから、パンダ目は避けられたものの、ファンデーションが塗られたままの肌は、毛穴が詰まっているような感じだった。
化粧をちゃんと落とさなかった翌朝は、いつもひどく後悔する。
化粧をしっかり落とし、シャワーを浴び、いつもよりノリは悪いが、再び化粧をし、身支度をして出かけた。
仕事でもないが、毎日出勤するのと同じ、渋谷駅に向かった。
目的は、昨日偶然見つけたカフェ「A Buono(アボーノ)」に行くことだった。
平日のランチとして、オフィスから行けない距離ではないが、15分位お店に行くまでかかるので、微妙な距離ではあった。
渋谷というよりは、明治神宮の方が近い。
天井が高くて、落ち着いた雰囲気があった。
日に当たるテラス席はとても気持ちが良さそうだが、今日は陰になっているテラス席に座らせてもらった。
客数は少なかった。
もしかしたら平日の方が混むタイプのお店かもしれない。
少しだけ長居させてもらい身にとっては有難い。
ランチメニューにはパスタが3種類、豆腐ハンバーグ、マグロ納豆アボカド丼に日替わり和食というものがあった。
いずれもスープとサラダがついてくる。
モツァレラチーズのトマトパスタをオーダーすると、鞄からノート、TOEICの問題集、ペン、それから電子辞書を取り出した。
学生時代から勉強する時は決まってどこかのカフェだった。
大学生の時はほとんどスタバだったが、社会人になってからは、色んなカフェ巡りをするようになった。
英語の勉強は、日々の目まぐるしい毎日をリフレッシュさせる時間でもあった。
そしてその勉強時間は、亮と別れてから、言うまでもなく一気に増えた。
もともと、亮は週末勤務も多かったので、週末に英語を勉強するのは学生時代からのお決まりでもあった。
高校1年の夏休みに行った、シカゴでのホームステイをきっかけに、本格的に英語を勉強するようになった。
中学から英語は好きで成績もいいほうだった。
だが、ネイティブスピーカー、いわゆる、英語を母国語とする人との会話となると、自分の英語の未熟さを思いしらされ、ホストファミリーとの会話も思い通りにはいかず、苦い思いをした。
しかし、シカゴに着いた初日と帰る時では、なんとなくだが、少しだけ意思疎通ができるようになったように感じた。
わずかではあるものの、私にとってその気づきは大きかった。
それ以来、時間がある時には英語の勉強に励むようになり、高校、大学の学生時代の夏休みは、ほとんどシカゴでホームスティをして過ごした。
アメリカの大学に編入しようかとも、本気で考えたこともあった。
だがその時、これといって専攻したい学部が特になかった。
何か専門的なことを学びたかったわけではなく、ただ英語に触れている日々が好きだった。
そんな理由で多額の学費を支払って、アメリカの大学に行くのは、さすがに疑問を感じた。
就職活動をする時、英語圏の国にも携わる会社に絞って就職活動をした。
幸い、何社か内定を貰い、そのうちの1つが、アメリカを含む海外に多く支店を持つ、外資系のBJワールドワイドだった。
高い英語力が必要と聞いていたので、自分には無理だと思っていた。
事実、入社してみると、仁を含め、帰国子女が本当に多い。
なので、運が良かったにせよ、内定の連絡があった時、私は嬉しくて泣いた。
私は迷うことなく、BJワールドワイドへの入社を決めた。
私と仁が所属する和田チームも、それなりに英語を使う機会は多かった。
ジュエリー、アパレル、コスメという業界柄、担当者が外国人ということも多い。
両親の仕事の転勤で、中学生の途中から大学卒業までアメリカで過ごしていた仁にとって、英語はすでに仁の生活の中に入り込んでいて、日本語を使う感覚とそこまで変わらないらしい。
仁も、最初は全く喋れず、楽しくない時期を過ごしたらしい。
大学まではテキサスはヒューストンにいたらしく、当時は日本人は珍しい存在かのように扱われたと言っていた。
だが、途中で吹っ切れたらしく、英語を徹底的に勉強し、大学は両親の元を離れ、ひとりカリフォルニアの大学で寮生活をして過ごしたらしい。
部長である和田さんも、イギリスで大学院を出ているし、ほかのメンバーも海外で数年以上住んでいたことのある人ばかりで、夏休みだけというのは私だけだった。
それでその英語力を身につけたんだったら、本当にしっかり勉強していたんだね、と、和田さんに褒められた時は、嬉しかった。
私の大学生活は、バイトの時間以外、ほとんどを英語に費やしたと言っても過言ではない。
そして昨年、エクスチェンジプログラムというのが会社で設けられた。
名前の通り、社員を交換するという制度で、エクスチェンジプログラムを行っている海外支店と、社員を3年間交換することができる。
このプログラムのいいところは、志願すれば誰でも応募することが可能というところだ。
営業サポートでも、経理でも人事でも、英語のスキルテストと、受入先の面接さえパスすれば行けるのだった。
東京支店もエクスチェンジプログラムを始めると発表された時、自分の中で眠っていた何かが突然目を覚ましたような感じがした。
ここしばらく感じたことがなかった、だが、こういうものを待っていた、そんな感覚だった。
取り入れることが決まったものの、まだ準備段階らしく実施はされていない。
自分が行けると決まったわけでもないが、自分がいつかアメリカのオフィスで、英語を使いながら働いている姿を想像すると、その自分はとてもイキイキとしていた。
だが、周りの帰国子女の社員と競うには、英語の勉強を倍以上頑張らないといけない。
でも、これしかない、私がやってやるのはこれだー。
そう決めてから、私は週末の英語勉強を欠かさなかった。
3ページほど勉強したところで注文したパスタが運ばれてきた。
勉強道具をカバンの中に一旦戻すと、ガーリックとハーブが混ざったトマトソースのいい匂いがした。
ひと口食べてみると、パスタのゆで加減はちょうどよく、モツァレラチーズとの相性も抜群で、思わず笑みがこぼれてしまう。
こういう週末って最高。
食後のデザートとコーヒーもオーダーし、引き続き勉強を続けた。
そして、再び時計に目をやった時にはすでに2時になっていた。
12時からいるので、約2時間いたことになる。
理沙は机の上に出していた勉強道具を鞄に入れると立ち上がった。
「すみません。居心地がよくてつい長居しちゃいました。」
支払いをしながら、黒縁メガネをかけた、いかにもお洒落なカフェにいそうな店員さんに言うと、その人は笑顔で言った。
「いいえ。うちも週末はそこまで忙しいわけじゃないですから。お食事、楽しんでいただけましたか?」
低くて渋い声で、とても優しい口調だった。
「パスタもパンナコッタもすごく美味しかったです。あ、コーヒーも。」
そう言うと、黒縁メガネの店員は目を細めて笑った。
「よかった、気に入ってもらえて。パンナコッタ、私の自慢のデザートのひとつなんです。」
そう言いながら釣銭を受け取ると、レジの後ろから犬の鳴き声が聞こえてきた。
レジを覗いてみると、そこにはスリムな体型をした小型犬が、自分のベッドで伸びをしているところだった。
理沙を見るなり、尻尾を振って近寄ってきた。
「かわいい~。何ていう種類ですか?」
理沙はしゃがんで犬の喉を撫でると、犬は嬉しそうに尻尾を振った。
「イタリアングレーハウンドっていう犬種らしいです。うち、テラス席がドッグフリーなので、知人が少し預かって欲しい時に面倒見てるんです。」
名前はマルコというらしく、メスかと思ったのだがオスだった。
名前の由来はマルコポーロかららしい。
「週末によくいるんで、マルコにも会いに来てやってくださいね。あ、もしよろしければ、お名前は?」
真淵理沙ですー、自分の名前を伝えた。
黒縁メガネの店員は有田さんというらしい。
料理も手頃で美味しく、広々としたお店の雰囲気は最高だった。
「また来週も来ていいですか?」と言うと、有田さんは「いつでもお越し下さい。」と笑顔で返してくれた。
そして、この有田さんとの出会いが、私にとって大きく影響をもたらすことになるとは、もちろん思いもしなかった。
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