第3話 広告代理店、営業アシスタント

時刻はすでに3時40分になっていた。


和田さんの部屋を横目にしながら、和田さんの姿を確認した。


どうやら誰かと電話をしているようだが、こちらの姿にも気づいたようで、ガラス越しに目が合った。


慌ててデスクに鞄を置き、ペンと手帳を持って和田さんのデスクへと向かった。


和田さんが手招きをすると、ゆっくりとドアを開けると同時に「それじゃあその話は後のミーティングで。」と言って電話を切った。


「遅れてすみません。」


デスクの向かいにあった椅子に腰かけると、和田さんが私に向き合った。


「コラー!っと言いたいとこだけど、まぁ今回は許す。で、いい感じだったんだって?商談。仁(じん)から早速電話で聞いたんだけど。」


いい感じだった商談とは、ついさっき新宿であったやつのことだ。


「先方は次回、社長とのミーティングを設定すると言っていました。」


和田さんは大きく手を叩くと、何度か頷いた。


喜ぶのも無理はなかった。


相手は今まで一度も広告を出したことのない会社で、営業である仁が新規開拓をしたジュエリーブランドだった。


2、30代女性をターゲットに、指輪、ネックレス、ピアスといったアイテムを持ち、主にセレクトショップでの取り扱いとなっている。


embellir(アンベリール)というこのジュエリーブランドは、簡単に握り潰せてしまえそうな位に細く華奢で、ファッションに感度の高い女性から人気を集め始めているところだった。


ちなみにアンベリールというのはフランス語で「美しくする」という意味らしい。


広報という部署を持ちながらも、与えられる予算が小さいことから、今まで出稿には至らなかった。


会社全体的にも、広告にお金を費やす程の余裕などうちにはない、という雰囲気があるのも事実だ。


広告やマーケティングというのは、会社に余裕が出てきたら、位の位置づけにされることは、本当によくある。


新規開拓となれば、それを断り文句にされるとこからのスタートが当然だ。


ちなみに出稿とは、原稿を印刷所に出すという意味でも使われるが、メディアに広告を出す、という意味でも使われる。


「断り続けられて1年位経ってるんじゃないの?仁もよく諦めずに粘った。」


心底から感心しているようだった。


アンベリールは、人気が出始そうになった1年前、セレクトショップという限られた取り扱いから、大手百貨店へと販路の拡張を図ったことがあった。


その時に広告を検討したことがあり、コンペを行った。


広告に対する初めての取り組みだったことや、注目を集めかけているブランドということもあり、どうしても受注したい魅力的なプロジェクトだった。


また、コンペが行われる前に開かれたオリエンテーションで出された戦略や予算は、それなりにしっかりしたものだったこともあり、他社の代理店も気合を入れてプレゼンに挑んでいた。


だが、実に気が抜ける結末を迎える羽目となってしまったのだった。


広告主は、結局どの広告代理店も選ばず、広告のプラン自体を取り止めてしまったのだ。


簡単に理由を説明すると、露出を拡大させたい広報部と、新しい行動に慎重な経営者の意見が上手く落ち着かなかった、というところだ。


一度は広報部と代理店からの「いいブランドだからもっと色んな人の手に届くよう、販売拡大しましょう!」という提案に心を動かされたものの、会社の利益、ブランドイメージ、リスクなどを改めて考え直してみると、経営者は、まだ広告を出す段階ではない、と躊躇した。


結局、その年に百貨店への販路拡張は行われなかったが、今年に入ると同時に、広告をせずに百貨店での販売を開始した。


ホワイトデーまでわずかな期間しかないにも関わらず、ホワイトデー商戦は予想以上に上手くいったようで、まさに今会社は軌道に乗り始めているといってもいい状態のようだった。


仁は、今年初めから、クリスマス商戦に向けてのアプローチをしてきた。

ジュエリー業界にとってクリスマスシーズンの売上は最も重要なものといっても過言ではない。


ホワイトデーの成功が後押しをし、経営者がついに広告を意識し始めるようになった、ということを広報から聞かされたのは、3ヶ月前のことだった。


そしてホワイトデーが終わって半年近く経った今、やっと経営者を含めたミーティングを設けてもらえるという段階にきたのだ。


不屈の精神というのは、まさにこのことなのかもしれない。


「今回は何社のコンペになりそうなんだっけ?」


「CとAなので3社です。」


競合企業の名前を挙げると、和田さんは腕組し背もたれにもたれかかり、しばらく何か考えているようだった。


「まぁコンペ前に社長直々お会いできるのは有難い。この後、月曜にプロジェクトチームとのミーティングを設定して、俺もアサインしておいてほしい。」


頷くと、手帳に念のため書き留めた。


「真淵としての感触はどう?」


「久し振りに同席しましたが、広報の人たちは仁に任せたい位だって言っていたので、仁とのリレーションはしっかり築かれているように感じました。」


「そうか。相手はかなりの慎重派だし、アナリティカルなタイプだから、細部まで徹底的に準備しておいたほうがいい。真淵は調査データの裏づけになるものを全て用意しておいて。」


アナリティカルなタイプとは、簡単に言うと、詳細やデータなどが好きなタイプである。


その後、来週の行動予定を話し、ミーティングは30分程で終わった。


椅子から立ち上がると、ふと机の上にあった写真立てが目に入った。


小さな女の子が手にタンポポを持って笑っている。


「あ、そういえば今日カノンちゃんの誕生日ですか?」


花の音と書いてカノン、和田さんの娘だ。


「よく覚えてくれてるね。そう、今日で4歳になるよ。」


和田さんは嬉しそうに、娘の写真に目をやった。


「8月20日、私の誕生日が11月20日なんで、覚えやすいんです。和田さん、何かしてあげるんですか?」


「奥さんがケーキを作るらしいから、俺はおもちゃでも買って帰るかな。」


「じゃあ今日は早く帰らないとですね。残業しちゃ駄目ですよ。」


頷きながら「そうだね。そうするよ。」と返した。


和田さんは営業部長の中で、一番優しいと言われている部長だった。


うちの会社には、1分遅刻すら許さない部長もいれば、まるで何かの軍隊のようにいつも怒鳴り散らしている部長もいる。


むしろ、怖い営業部長のほうが圧倒的に多く、和田さんのように穏やかな営業部長は珍しい。


他のチームから移ってきた営業で、まるで天国と地獄のようだと表現した人がいた。


和田さんはそれ位穏やかな人だった。


和田チームと呼ばれる第2グループは、主にコスメ、ジュエリー、アパレルといった業界を担当し、和田さんは自分の下に6人の営業を抱えている。


仁は、そのうちのひとりだ。


私は、和田チームの営業アシスタント、略して営アシとして、和田チームの営業たちをサポートしている。


日々外回りで忙しい営業の代わりに、マーケティングチームに必要な資料を依頼したり、調査結果をまとめたりするのが主な業務となっているが、その他にも営業が忙しい時には臨機応変に、営業が動きやすい体制を整えるのが仕事となっている。


先ほど和田さんに頼まれた、プロジェクトチームでのミーティングを設定したり、営業と取引先に同行し、商談内容をまとめたりするのも仕事だ。




1階のコンビニでジュースを買ってからオフィスに戻ると、エレベーターホールには、さっき商談で一緒だった仁が携帯で話しをしていた。


目が合ったものの、そのまま首にかけた社員証をセキュリティーにタッチし、オフィスに入ろうとした。


が、その時、話し中の仁が私の腕を掴んできた。

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